初代は姫路城のような真っ白な天守閣

天守閣は3度造営された。初代は慶長年間(1607年ごろ)で、総塗籠の壁と鉛の瓦のため「富士山と雪の峰にそびえる」真っ白な天守閣だった。姫路城をイメージすればいい。2度目は大坂夏の陣の少し後、秀忠が将軍だった元和年間で、3度目は家光の寛永年間だ。1657年の明暦の大火で焼失し、約360年にわたり再建されなかった。

元和、寛永の天守閣はよく似たデザインで、五層で壁の下部に黒い板を張っていたが、元和の時は漆塗りの板、寛永では黒色に加工した銅板だった。瓦には金の飾りが施された。防火対策がほどこされていたのだが、ひとつだけ窓が開いていて、そこから火が入ったらしい。

「江戸図屏風」に描かれた元和度もしくは寛永度天守
「江戸図屏風」に描かれた元和度もしくは寛永度天守(画像=国立歴史民俗博物館ウェブサイト/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

デザインは、大坂城天守閣のような入母屋式大屋根に望楼が乗るものでなく、層塔式で下層と上層の面積の減り方が少なく、最上階の高欄はなかった。内部は倉庫で、将軍が居住したり登ったりすることは原則なかったという。

現存天守では松本城に少し似たイメージだ。高さは建物部分だけで44.8m(天守台を含めて58.6m)ほどあり、現在の大阪城の41.5m(同じく54.8m)、名古屋城の36.1m(同じく55.6m)より大きかった。現存12天守で最大は姫路城の31.5m(同じく46.4m)で、豊臣時代の大坂城や安土城とほぼ同じだ。

「ただの展望台」と再建計画は中止

大火のあと再建するつもりで天守台も築かれたが、幕閣の長老だった会津藩主・保科正之が、「天守は近代、織田右府(信長)以来の事にて、ただ遠くを観望いたすまでの事なり」と意見し、再建は中止になった。天守閣というものが織田信長の創り出したものだと、権力中枢にあった正之が意識していたわけで、当時の常識だった。

天守閣のルーツは、いろいろ説があり、天主、殿主といった呼び方をされた例も安土城に先立って存在しているが、1576年から築城された安土城は、規模も豪華さも桁違いだった。しかも、大手門から天守閣の足下までは、ほぼまっすぐに伸びた階段が続いていた。

バチカン市国のシンボルであるサン・ピエトロ寺院は、ほぼ同じ時代に建設された。テヴェレ河畔のサンタンジェロ城のあたりから、ゆるい上り坂を上りながらバチカンへ向かう時の高揚感は素晴らしいが、信長と同じ発想だ。信長はルネサンス人だった。