1603年、徳川家康は朝廷から征夷大将軍に任命され、江戸幕府を開いたとされる。歴史評論家の香原斗志さんは「征夷大将軍になっても秀頼と豊臣家を頂点とする政権は残っていた。『征夷大将軍の任命=江戸幕府誕生』とは言えない」という――。
狩野探幽画「徳川家康像」(画像=大阪城天守閣所蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons)

関ヶ原に戦勝しても秀頼の臣下だった家康

「徳川幕府誕生」。NHK大河ドラマ『どうする家康』(11月19日放送)の第44回のタイトルである。第43回「関ケ原の戦い」(11月12日放送)で、石田三成(中村七之助)率いる西軍を、徳川家康(松本潤)率いる東軍が撃破。それは慶長5年(1600)9月15日のことで、同8年(1603)2月、家康は征夷大将軍に任じられている。

歴史の授業では、これをもって「幕府誕生」と教わったことと思う。だが、結論を先にいえば、たしかに「将軍」は誕生したけれど、それをもって「幕府」なるものが誕生したとは、まだいえない状況だった。

関ヶ原の戦いで家康側が圧勝したのはまちがいない。だが、それで全国が家康になびくほど、事は簡単には進まなかったのである。

家康は勝利ののち、9月27日に淀殿と豊臣秀頼に戦勝報告をしたが、あくまでも主君たる秀頼への、臣下たる家康からの報告だった。10月に大坂城中で、一時は家康らを反乱軍扱いした淀殿および秀頼と、和睦のための盃が交わされたが、このときも淀殿が飲み干した盃が家康に回り、上座に座っていたのは淀殿と秀頼だった。

また、家康は戦勝後、諸大名の加増や減封、改易、転封などをすべて仕切った。当時の日本の総石高は1850万石ほどといわれるが、そのうち416万石余りを没収し、有力5大名を減封して208万石余りを奪い、さらに豊臣蔵入地(各地に点在した豊臣家の直轄領)を削減して、およそ780万石を再分割した。

いわば国家の再編成に近いほど、空前絶後の領地の再配分を家康が行ったのだが、その際には必須であるはずの領地宛行の判物や朱印状を、家康はまったく発給していない。この判物や朱印状こそが封建的主従関係の基本になるのに、家康による領地の再配分は、口約束だけで行われた。この時点では家康は豊臣家の家臣にすぎず、それを発給するとすれば秀頼の名で出すしかない。だから出せなかったのである。