世間がみた秀頼と家康の関係

しかし、家康が将軍に就任したからといって、世間はそれで家康が天下をとったことになるとはみなしていなかった。

たとえば、醍醐寺三宝院の門跡の義演による『義演准后日記』の慶長7年(1602)12月晦日の記述には、「秀頼卿関白宣下の事、仰せ出さると云々、珍重珍重」とあり、家康が将軍に就任すると同時に、秀頼は関白に任官すると、周囲が見ていたことがわかる。

また、毛利輝元も国元に宛てた慶長8年(1603)正月10日付の書状に、「内府様将軍ニ被成せ、秀頼様関白ニ御成之由候、目出たき御事候」と記している。つまり、「秀頼がいずれは関白になり、政権に復帰する可能性があるというのが、当時の人々の間では共通の認識だった」(本多隆成『徳川家康の決断』中公新書)ということである。

それを理解しているからこそ、家康も万全を期したものと思われる。じつは、実際に征夷大将軍に任官する1年前の慶長7年(1602)2月、家康は源氏長者補任の内旨、すなわち将軍宣下の打診を朝廷から受けたが、固辞している。儀式を執り行うために普請を進めていた二条城が未完成だったことなどが理由だと思われる。

そして、万事整った慶長8年(1603)2月12日、家康は伏見城に勅使を迎えて征夷大将軍に任ぜられ、同時に源氏長者、淳和奨学両院別当に任ぜられ、右大臣に昇進。3月21日には完成した二条城に入り、25日にそこから将軍宣下の御礼として参内した。

「豊臣秀頼像」(画像=養源院所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

秀忠より秀頼の方が官位が上

こうして将軍になったのち、家康は秀頼への年頭の礼のために大坂に行くこともなくなり、徳川家と豊臣家の関係は大きく変化した。一方、変わらない点も多々あった。

関ケ原の戦いを経て、豊臣家の領地は摂津(大阪府北中部と兵庫県南東部)、河内(大阪府東部)、和泉(大阪府南西部)の65万石に削減された、といわれてきた。しかし、近年の研究で、秀頼の家臣たちの知行地が西国各地に細かく分布していたことがわかっている。あきらかに一般大名を超越した存在だったということだ。大坂城の備蓄金や、すでに大商業都市であった大坂を支配することによる経済力も、他の大名を圧していた。

そして、家康は将軍として豊臣系大名を指揮できるようにはなったが、豊臣家が豊臣系大名たちと並列の関係になったわけではなかった。将軍は大名たちにとって、豊臣家への忠誠と矛盾しない観念だった。

つまり、「秀頼と豊臣家を頂点とする従来の豊臣公儀体制は存続したままに、家康はそれと別個に新たな政治体制を設けたということ」であって、豊臣系大名たちは「豊臣家と秀頼に対する忠誠は保持したうえで家康の征夷大将軍としての軍事指揮権に従っている」ということだった(笠谷和比古編『徳川家康 その政治と文化・芸能』所収 笠谷和比古「関ヶ原合戦と大坂の陣」宮帯出版社)。

それは朝廷の対応を見てもわかる。慶長7年(1602)に家康が正二位から従一位に昇進すると、秀頼は従二位から正二位に昇進。家康が将軍任官と同時に右大臣に昇進すると、2カ月後に秀頼は内大臣に昇進している。家康のほうが位階と宮職は上位ではあったが、嫡男の秀忠よりは秀頼のほうが上で、慶長10年(1605)4月16日、将軍職が秀忠に譲られたのちも、秀頼は秀忠より上であり続けた。

こうした関係が抹消されるためには、大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡するのを待たなければならなかった。