早くから将軍になることを意識していた家康

むろん、家康は自分が「天下人」になるための準備を着々と進める。いうまでもなく、家康がねらったのは将軍の座である。ドラマでは、本多正信(松山ケンイチ)が家康に「いかがでございましょう、いっそ将軍になるというのは?」を提案し、家康は「徳川は武家の棟梁。豊臣はあくまでも公家。住み分けられるかもしれんな」と答えるようだ。しかし、家康は正信にいわれるまでもなく、将軍になることを早くから意識していた。

福田千鶴氏によれば、慶長6年(1601)5月の時点では、松前盛広の書状に「御位日本将軍に御成可被成由ニ候(将軍の地位にお就きになろうとされているようだ)」と記されており、関ヶ原の戦いの数カ月後には、家康が将軍になるという噂があったことがわかる(『豊臣秀頼』吉川弘文館)。

家康がそのためにまず企てたのは、源氏への改姓だった。豊臣政権下では家康も嫡男の秀忠も、秀吉からあたえられた羽柴名字と豊臣姓を、いわばしぶしぶ使っていたが、関ヶ原戦勝後は使用をやめた。慶長7年(1602)2月20日の近衛前久の書状により、それ以前には家康が、豊臣姓から以前も使用していた源姓に改姓していたことがわかる。しかも前久は、改姓が将軍の座を望むからだとまで記している(黒田基樹『徳川家康の最新研究』朝日新書)。

その前年の慶長6年(1601)3月28日、秀忠が朝廷から従二位権大納言に叙任されたとき、すでに源姓になっていた。ということは、家康はそれ以前に源姓に戻していたと考えられる。

源姓でなければ征夷大将軍になれない、と定められていたわけではないにせよ、源頼朝以来、室町幕府の足利将軍にいたるまで源氏だった。したがって、前例に従うなら征夷大将軍になるには源姓であるほうがいい、と考えたのである。

なぜ秀吉は将軍ではなく関白になったのか

ところで、秀吉はなぜ征夷大将軍に就任しなかったのか。

織田信長は本能寺の変の直前に朝廷から、征夷大将軍、関白、太政大臣うち好きな職に就かせると打診されていたが、生きていたらなにを選んだのか永遠の謎である。一方、秀吉は将軍職を望んでいたという見方もあるが、その道を選ばなかった理由としては、次のようなことがいわれてきた。

ひとつは、征夷大将軍は東夷(粗野な東国の武士をあざけって呼ぶ言葉)を制する武人にあたえられるものだが、天正13年(1585)の時点では、秀吉はまだ東国を制覇できていなかったから、というもの。また、信長によって追放された足利義昭の猶子になろうとしたが断られた、という話もあるが、同時代の一次資料には出てこないので、真偽のほどはわからない。

まちがいないのは、朝廷内で関白の地位をめざして二条昭実と近衛信輔による争い、いわゆる「関白相論」があったため、秀吉はいわば漁夫の利を得るように関白の座に就くことができた、ということだ。秀吉にとっては、天下を治める大義名分が得られれば、どの地位でもよかったのではないだろうか。

一方、家康には征夷大将軍に就かなければならない理由があった。

征夷大将軍という職には伝統的に、武家に対する軍事指揮権がある。家康は関ヶ原の戦い後、前述のように領地宛行の判物や朱印状を発給できなかった。しかも、先に記した領地の没収高780万石の過半数にあたる425万石を、主に関ヶ原で東軍の勝利に貢献した豊臣系の諸大名にあてがうほかなかった。だが、征夷大将軍になれば、いまはまだ秀頼の臣下のままでいる大名たちも、自分の指揮下に置くことができる。だから、どうしても将軍に任官したかったのである。