なぜ徳川家康は関ヶ原の戦いで勝利できたのか。歴史家・作家の加来耕三さんは「家康による作戦勝ちといえる。武田信玄の戦法を模倣し、石田三成を城からおびき出すことに成功する。これにより、西軍は総大将の毛利輝元を待たずして戦うことになった」という──。(第5回)

※本稿は、加来耕三『徳川家康の勉強法』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。

「元亀三年十二月味方ヶ原戰争之圖」
「元亀三年十二月味方ヶ原戰争之圖」(画像=歌川芳虎作/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

石田三成10万の兵に対し家康が考えたこと

1600(慶長5)年7月24日、家康が下野小山に到着すると、上方の徳川氏の拠点、伏見城の守将・鳥居元忠から、急報が届きます。三成勢4万近い大軍から攻撃を受けていること、三成が10万近い兵力を結集しつつある、との報告でした。

恐れるに足りない、と思っていた三成方が、どうして10万もの兵力に膨れ上がったのか。

「どうする──」

いつものことながら、すぐさま徳川家の諸将だけが招集され、軍議が始まりました。

「ここが勝負どころ、激してはならぬ」

カッとしやすい自身にそう言い聞かせながら、家康は、家臣たちの意見を聞いています。

まず、本多正信が口火を切りました。

「この陣中にある大名の大半が、豊臣家の家来です。彼らのほとんどの者が、妻子を大坂に残しており、しかも、いまやその妻子は三成の手のうちにある──」

したがって、いつ寝返ってもおかしくはない、というわけです。

「まず、会津征伐軍をこの地で解散し、諸侯を各々の領地へ返し、しかるのちに去就を明らかにさせればいい。上方勢は、当家が一手に迎え撃つ覚悟で臨むことが肝要です」

が、これを聞いた家康は、内心、「何をいまさら──」と思っていました。この機を逃しては、生涯、天下に覇を唱えることはできない、と彼は考えていたからです。

すると井伊直政が立ちあがり、異を唱えました。

「ものごとには勢いというものがあります。いま、この勢いに乗って怒濤どとうのごとく西上すれば、われらは決して敗れるものではありません。殿、今こそ決断なされる時ですぞ」

家康は、無言でうなずきました。徳川家の方針はこれで決まったのです。

次は、明日に予定している豊臣恩顧の大名たちとの軍議をどうまとめるか、です。