江戸幕府の第2代征夷大将軍である徳川秀忠は、家康の三男であり、能力も「凡庸」と言われていた。なぜ家康は長男や次男ではなく、三男を後継者に選んだのか。歴史作家の河合敦さんの著書『日本史で読み解く「世襲」の流儀』(ビジネス社)より、一部を紹介する――。
徳川秀忠像
徳川秀忠像(画像=松平西福寺蔵/Blazeman/PD-Japan/Wikimedia Commons

跡継ぎ育成に失敗していた家康

人質から天下人に成り上がった徳川家康。日本で最も出世した偉人といえるだろう。

慶長8年(1603)、朝廷から征夷大将軍に任じられて江戸に幕府を開いた家康だが、そのわずか二年後、息子の秀忠に将軍職を譲り、徳川が政治権力を世襲することを内外に誇示した。さらに武家諸法度、一国一城令、禁中並公家諸法度、寺院法度などで、政権を危うくする大名、朝廷、寺社と徹底的におさえたのである。

けれど、将軍を隠退して大御所になってからも秀忠には政治を任せず、家康は死ぬまで権力を手放さなかった。このため、死に臨んで家康は、秀忠のもとで徳川政権が続くかおおいに心配したが、それはまったくの杞憂きゆうに終わった。

「凡庸」と言われた秀忠が、じつは極めて優れた為政者だったからだ。いったい秀忠はどのように家康から権力を引き継ぎ、徳川体制を盤石にしたのだろうか。

天下を統一して戦国の世を終わらせた徳川家康は、江戸幕府を開いて初代将軍となった。その後、将軍職は秀忠、孫の家光と十五代にわたって継承されていき、徳川将軍家のもとで二百年以上にわたって平和な世の中が続いた。そういった意味で家康は、見事に事業承継に成功したといえる。でも、そんな家康も当初は、跡継ぎの育成に失敗している。

長男の信康を二十一歳の若さで死に追いやっているからだ。