“会長”となって権力を握り続けた家康

さて、話を関ヶ原合戦まで戻そう。

秀忠軍の遅参もあって、合戦で活躍したのは東軍に属した豊臣系の大名たちで、家康の直臣たちは大功を立てられなかった。このため、外様に大幅な加増をせざるを得ず、家康は完全に権力をにぎるのに手間どり、江戸に幕府を開いたのは、慶長八年(1603)二月のことになった。

関ヶ原古戦場
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ところが、わずか二年後の慶長十年(1605)四月、家康は将軍の地位を秀忠に譲ってしまう。今後は代々徳川家が将軍となって権力をにぎるということを、内外に示すためだった。大御所となった家康は、このとき六十四歳、すでに隠居してもいい年令だが、それ以後も家康は権力を手放さなかった。

中小企業の社長が息子に社長職を譲りながら、会長として会社を牛耳るようなやり方だ。しかも、まもなく駿府城に移った家康は、死ぬまで権力を維持し続けたのである。

よく、秀忠が将軍になって以降、徳川政権は江戸(秀忠)と駿府(家康)で二頭政治をおこなっていたとされるが、それは嘘だ。駿府の家康がブレーンに政策を練らせ、それを江戸の秀忠に実行させていただけ。現在の事業承継とは正反対の手法である。とはいえ、そうしたやり方があってもよいだろう。

けれどそうなると、一般的に二代目社長が不満を持つものだが、秀忠はひたすら父を敬愛し、逆らうことはなかった。

カリスマ性がないからこそ、父を崇敬していた

これに関して、次のような逸話が伝わっている。秀忠が駿府城に滞在したさい、家康は側室の阿茶局に「秀忠はまだ若者だ。さぞかし独り寝は寂しかろう。侍女のはなに菓子でも持たせ、あいつの部屋へ遣わしてやれ。きっといい慰めになるだろう」と夜伽の女を送らせた。花は、有名な美人だった。

ところが秀忠は、花が家康から遣わされた者だと知ると、かみしもをつけて正装したうえで、部屋へ迎え入れて上座に座らせたのだ。そして、彼女が持参した菓子を頭にいただいて丁重に礼を述べたうえ、「今宵は遅いですので、どうぞ早めにお帰りください」と、自ら戸口まで出て見送った。

その話を聞いた家康は「あいつの律儀さには、はしごをかけても届かない」と苦笑したという。少々、わざとらしさを感じるものの、ここまで実の息子に敬愛されたら、家康も秀忠を可愛く思うだろう。

秀忠は、家康のようなカリスマ性がないことは自分が一番わかっていた。だから父を崇敬したのであり、さらに父の言動も見習ったのである。