我が国の正史である『日本書紀』には、「邪馬台国」も「卑弥呼」も登場しませんが、「邪馬台国やまたいこく」と「倭国やまとこく」は音が似ていますし、「卑弥呼ひみこ」と「姫御子ひめみこ」も音が似ています。

完全に嘘ではなく、魏志倭人伝に登場する人物に相当するような誰かが日本列島にはいたかもしれない、という、そのくらいの仮説は立てることができるでしょう。

静岡県の登呂遺跡
写真=iStock.com/MasaoTaira
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日本書紀を無視して、「中国の歴史書」を絶対視する違和感

受験生が丸暗記させられる用語を羅列します。

通説
・漢書地理志 =漢の時代。楽浪郡の向こうで倭は百くらいの国に分かれていた。
・後漢書東夷伝=後漢の時代。光武帝に挨拶に来た倭奴国王に金印をあげた。
・魏志倭人伝 =三国時代。倭の邪馬台国の女王卑弥呼に親魏倭王の金印をあげた。
・宋書倭国伝 =南北朝時代。宋に五人の倭王が次々と挨拶に来た。
・隋書倭国伝 =隋の時代。倭の多利思比孤タリシヒコが生意気な挨拶をした。

二九頁に『漢書地理志』の内容は書いておきました。一応、「後漢書東夷伝」もおさらいしておきましょう。

五世紀に成立したとされる『後漢書』の東夷列伝の中の倭について書かれた、一般的には「後漢書東夷伝」と呼ばれている記事は、一世紀から二世紀頃の日本について書かれたもので、特に次の内容が有名です。西暦五七年のことです。

建武中元二年、倭の奴国の使者が、貢ぎ物を奉げて後漢の光武帝のもとに挨拶にきた。使者は大夫と自称した。倭の奴国は倭国の一番南の地である。光武帝は倭の奴国の王に、印章と下げ紐を賜った。(前掲『倭国伝』三二頁)

ふう~ん。飛ばして次。

三国時代の中国は、魏・呉・蜀に分かれていました。日本列島から一番近いのが、魏です。「魏志倭人伝」には、魏の明帝が卑弥呼に対して「汝を親魏倭王として、金印・紫綬を与えよう」という勅を発したということが書かれています。

これも何回か紹介しましたので、次。さっさと本節の主題です。

江戸時代から繰り返される「倭の五王」の議論

五世紀成立の「宋書倭国伝」では、五世紀の日本について、「讃・珍・済・興・武という五人の王様が次々に挨拶に来て、朝鮮を征服したので称号をくれと言うから役職を任命した」といったことが書かれています。

日本の歴史学者は、「讃・珍・済・興・武」がどの天皇にあてはまるかを必死になって研究しています。別に戦後歴史学の弊害でも何でもなく、江戸時代からあんまり進歩せず。