正史・日本書紀には卑弥呼も、邪馬台国も書かれていない

これが、『日本書紀』で触れられている「魏志倭人伝」のすべてです。

神功皇后の統治の年数をあちらの年代に合わせて計算して「三十九」「四十」「四十三」としていますが、「○○天皇は百歳まで生きた」なんてのを史実と認めない限り、どう計算しても神功皇后と卑弥呼は年代が合いません。

夕焼けの遺跡
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身も蓋も無いことを言うと、ヤマト王権とは何の関係も無い北九州の族長が魏に「私が倭の王様です」と名乗って、向こうが真に受けて信じた、とすれば筋は通ってしまうのですが。

これ、何の根拠もない妄想でもなく、足利幕府と持明院統の朝廷に楯突いて九州を占拠していた後醍醐天皇の皇子である懐良親王が明に使いを送って、「私こそ日本の支配者だ」とかナントカ嘘八百億を並べたら、マヌケにも皇帝も政府も信じたという、明確な史実が残っているのです。

ちなみに、明の国書の宛所は「良懐」です。西暦一三六九年にもなってこんなことをやっているのが中華皇帝、自分たちの歴史はともかく、外国の歴史を真面目に記述する気があるとは思えません。

明智光秀は「阿奇知」、秀吉の記述もデタラメ…

魏志倭人伝どころか、例えば戦国時代の記述にしても中国の記述はメチャクチャです。

明智光秀と同一人物だと思われるのですが、「阿奇知あけち」という謎の人物が別途に登場するのが、『明史』(一七三九年成立)の日本編です。次のように書かれています。

信長の参謀に阿奇知という者がいたが、あるとき信長の機嫌を損ねるようなことをした。信長は秀吉に命じ、兵を率いて彼を討伐させた。ところが、信長は家臣の明智の不意討ちにあって殺された。秀吉はその時、阿奇知を攻め滅ぼしたところだったが、変事が起こったことを聞くと、武将小西行長らとともに、勝ち戦に乗じて軍を引き返して明智を誅殺した。秀吉の威名はますます天下に轟いた。(『倭国伝 全訳注 中国正史に描かれた日本』藤堂明保・竹田晃・影山輝國、講談社、二〇一〇年、四三一~四三二頁)

豊臣秀吉、朝鮮出兵で明と戦っています。その秀吉に関して、この杜撰な記述。もはやインテリジェンス以前の問題です。明史の成立は江戸時代ですが、同時代の日本人の歴史家でこんな不正確な記述は許されません。

人や地域の名称は音にあてこまれているだけ

中華帝国の正史は「皇帝の歴史」ですから、皇帝から周辺に行けば行くほど不正確と呼ぶのもおこがましいほど、不真面目になっていきます。

「魏志倭人伝」とか、後から出てくる「宋書倭国伝」「隋書倭国伝」を必要以上に、ましてや聖典の如くありがたがる必要はありません。

ただし、だからといって「魏志倭人伝」が百パーセント嘘だということにはなりません。漢字表記は、特に人や地域の名称は音にあてこまれているだけですから、解釈の可能性は広いのです。