なぜ日本企業には「担当部長」「担当課長」という人が多いのか。経営コンサルタンタントの新井健一さんは「組織の成長鈍化にあわせて、管理職ポストが不足するようになった。ライン長を増やすことはできないが、専門職であればいくらでも増やせる。その結果、担当部長や担当課長というあいまいな存在が増えていった」という――。(第2回)

※本稿は、新井健一『それでも、「普通の会社員」はいちばん強い 40歳からのキャリアをどう生きるか』(日本経済新聞出版)の一部を再編集したものです。

暗い部屋にいるシニアビジネスマン
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会社員にとって「昭和」とはどういう時代だったか

ここでは、いまどきの若手社員に嫌われる「昭和だよね」のなにが「昭和」なのかについて考えてみたい。先ずは「会社員にとって『昭和』とはどういう時代だったのか?」について概観する。

年表でみれば、大正最後の年となる大正15(1926)年の年末、大正天皇が崩御され改元、「昭和」という時代が始まった。そして、昭和20(1945)年に第二次世界大戦は終結し、日本は敗戦国となる。以降、日本は経済活動において躍進を遂げ、昭和64(1989)年の年明けに昭和天皇が崩御し、「昭和」という時代は終わった。

我々は時代の移り変わりを目撃する者である。そして、やはり昭和の分岐点は昭和20年、第二次世界大戦の終結だろう。

そして会社員、いわゆるサラリーマン(あえてこの言葉を使う)の働き方は、昭和20年以降に作られたものだ。それ以前には、職工制度という江戸時代の差別ではないが、学歴により働き手の人事労務管理全般を「区別」していた。職員と工員では、労働環境に雲泥の差があり、特に工員は低賃金で過酷な労働を強いられ、そして職員に比べてはるかに貧しかった。

だが、くしくも戦争というものが、職員と工員の区別を国民に一括りし、貧しさと飢えの渦中に放り込んだのである。そして昭和20年を迎えた。戦後、日本が復興するために、先ずは基幹産業から多くの人手が必要となったのだが、では当の働き手が求めたものは何か。