オーナーとは腹を割って話せる関係だった

私の場合、オーナーと腹を割って話せるという点で、由伸よりはやりやすかったのではないかと想像するが、それでも1年目は準備期間がなかったので、一軍・二軍コーチの人事にはあまり手を付けられず、森さん時代の後を引き継ぐ部分が多かった。堤さんは89年から日本オリンピック委員会(JOC)の初代会長を務め、長野オリンピック(98年)の誘致に奔走した人でもある。

そのため海外のスポーツ界とのコネクションも多く、80年から2001年まで国際オリンピック委員会(IOC)の会長だったフアン・アントニオ・サマランチ氏とも親交があった。サマランチ氏の事務所には、代理人を通じて世界中からスポーツ選手の売り込みがある。堤さんに言われてスカウトとともに事務所を訪ねて獲得した選手の一人が、2000年に入団したトニー・フェルナンデスだった。

練習ではわざとトンネルをしたり、工事用のハンマーで素振りしたり、暗室で瞑想めいそうしたりとかなり変わった選手だったが、チームへの貢献は揺るぎない男だった。ドミニカでお兄さんが亡くなった時も、チームの優勝争いを優先して帰国を延期してくれた。引退後はテキサス・レンジャーズのGM特別補佐を務めたこともあったが、2020年に若くして亡くなっている。

「横浜しか行かない」と言っていたが…

さて、松坂大輔という投手は本物なのか。

甲子園春夏連覇、PL学園との延長17回の死闘、決勝でのノーヒットノーランなど、高校野球で残した成績は凄まじいものがある。しかし、実績よりも大事なのは、プロの眼で見て「投げる球の質が高いのか」「長く投げ続けられるフォームなのか」というところだ。

甲子園球場
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テレビ中継で見ただけでも、モノが違うことは一目瞭然だった。しかし大輔は「横浜しか行かない」と公言していたので指名を回避する球団も多く、ドラフト会議ではリーグ優勝を争った日本ハムと、日本シリーズで戦ったばかりの横浜が競合相手となった。

ドラフト会議で運よく当たりくじを引き、横浜希望と言う彼をチームに招くべく、初回の交渉では私の200勝記念ボールを「この重みをどう感じるかは任せる。君が200勝したら返してくれ」と言って渡している。ご両親と本人には「監督としてではなく、一人の投手として責任を持って200勝させる」と約束し、あくまでも競争の中で勝ち残らせて、日本シリーズ第1戦の先発を任せられる投手にすることを宣言した。

251の勝ち星のうち、記念として残していたのは200勝のボールだけだった。その重みをどう感じてくれたのかはわからない。しかし、二度目の交渉で前向きな返事をもらい、あとの細かい交渉や手続きは気持ちよくフロントに任せることができた。