「いいカモが来たと思ってるんでしょ」

お腹はそこそこいっぱいということなので、ワインと数種類の前菜を出す。通常、午後10時頃にはパスタを茹でるお湯を抜くのだが、「締めが食べたい」と言われてシェフは午後11時過ぎからパスタを作り、お代わりも求められてそれも作った。

おしゃべりは長く続き、ワインも何本も開けていただき、私たちは閉店時間を過ぎてもお客さんをもてなした。楽しんでいただけたようだし、売り上げも5万円近くなり、こちらも「終わりよければすべて良し」と気分良くなっていたのである。

ところが、帰り際のことだ。その会社の偉い人がシェフの肩に手を回し、からかうようにこう言ったのだ。

「これだけ遅い時間から稼げて、いいカモが来たと思ってるんでしょ」

カチンときた。何をバカなことを言っているんだ。連絡なしで遅れたのに笑顔でもてなし、ラストオーダーの時間を過ぎてもパスタを何度も作ったシェフに、なんて失礼なことを言うのか!

短気な私はつい、その人を睨みつけたらしい。お客さんが帰った後、その表情を見ていたシェフに「お客さんに失礼だろう!」と厳しい声で叱られた。しゅんとなり、謝って、黙々と片付けを始めた私に、シェフは「余ったワインを飲んでから片付けよう」と声をかけてくれた。6000円する美味しいワインが3分の1ほど残っている。高めのワインを勧めておいて良かった。

勝手にタバコを吸おうとしたことも

まだ私はこの時は、シェフに叱られても「解せない」という気持ちの方が強かった。

暗い顔でワインを飲み始めた私に、シェフは優しい声に変わって「あの人は前も失礼なことを言ってきたことがあって、一度ピシッと伝えたことがあるんだよ」と教えてくれた。うちの店は禁煙で、他にお客さんもいるのに「タバコ吸っていいでしょ」と勝手にタバコを吸おうとしたことがあるらしい。「ダメに決まっているでしょう」と厳しく伝えたのだという。そういえばこの日もシェフは「タバコ吸っていい?」と聞かれて断っていた。

ワイングラスに注がれれる赤ワイン
写真=iStock.com/Instants
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「なんか飲食店を下に見ているお客さんっているんだよな。失礼なことだよな」とシェフが遠い目をしてつぶやく。あぁ、そうか。シェフは私よりずっと悔しい思いを何度も何度も重ねてきたのだろう。それでも家族やスタッフの生活を背負う経営者だから、そんな気持ちをグッと飲み込んでお客さんをもてなすのだ。そんなシェフの気持ちがわかって、私はようやく本気でお客さんを睨んでしまったことを反省した。

それでも結局、お客さんとのすれ違いで傷ついた心を癒すのもまたお客さんとのやり取りだ。閑古鳥の鳴く日に常連さんが顔を出してくれてワインをごちそうしてくれたり、満席でてんてこ舞いになっている日に一緒にお皿を下げてくれたり、そんな思いやりを受け取ると、嫌な気持ちはすべて吹っ飛んでしまう。そして、この仕事をしていて良かったなと心から喜びを感じることができるのだ。