「少年愛」を報じた直後、婦人雑誌に“左遷”

以前にも触れたが、私が週刊現代でジャニー喜多川の「少年愛」について取り上げたのは1981年4月。タイトルは「『たのきんトリオ』で大当たり 喜多川姉弟の異能」。タイトルを含めて、私がつくった原稿とは似ても似つかないものになってしまったが、業界的には大きな騒ぎになった。

メリー喜多川氏は、「講談社の雑誌にはうちのタレントを一切出さない」と通告してきた。

週刊文春は、この騒ぎを大きく取り上げた。一方、社はジャニーズ事務所に頭を下げ(私の想像だが)、婦人雑誌へ私を飛ばして事態の収拾を図った。私は社を辞めようと思った。だが、生来軟弱なため、それもできずに社の隅でダラダラと過ごすことになる。

このことでジャニーズ事務所は出版社の黙らせ方を学んだのであろう。テレビも同じ構造である。

私はその後、1990年から1997年までFRIDAYと週刊現代の編集長を務めた。その間、ジャニーズのタレントたちのスキャンダルは山ほどやったが、ジャニー喜多川の性癖を追及する記事はほとんどやらなかった。

80年代とは比べものにならない、多くの人気アイドルグループを抱えたジャニーズ事務所と事を構えれば、メリー喜多川氏は以前と同じように「一切タレントは出さない」といってくることは間違いない。

町の本屋さん
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あのとき追及していたら、多くの被害者を救えたはず

マンガ誌、少年少女雑誌、女性誌の編集長たちと個別に会って説得しても、快くOKしてくれるとは思えない。そうした動きを社が知ったら、ジャニーズ事務所の“腰巾着”役員が、真っ青になってすっ飛んでくるはずだ。

広告部からは、ジャニーズのタレントを使った広告が入らないと悲鳴が上がるだろう。

先のサンデー毎日で、今井照容氏が寄稿した中に、ジャニー喜多川問題追及をした元文春編集長・木俣正剛氏のこんな言葉がある。

「広告と出版からは、木俣は何ということをしてくれたのだ、と。これが文春社内の本音の反応でした。(中略)それでも、社内の誰もが『週刊文春』がジャニーズと闘うことを許してくれたのは、文春には報道の自由を守るという社風があったからです」

残念ながら、私に不正を徹底的に追及するという気概もなければ、社に報道の自由を守るという空気もなかった。この問題をやるには社を辞める覚悟で臨まなくてはならなかったが、またも私は日和ったのである。

文春がジャニー喜多川の連続追及を始めたのは、私が現代を辞して2年後だった。

81年からジャニー喜多川の「少年愛」を追及していれば、多くの被害者を救えたはずだ。そんな負い目もあって、定年間近から最近までジャニー喜多川批判を続けてきたが、何の力にもならなかった。

BBCの取材にも協力し、この問題について長時間のインタビューにも答えたが、見事にカットされた。