久万オーナーの功罪

久万オーナーは阪神電鉄の取締役、社長を歴任し、6歳上の小津球団社長とは出世争いのライバル的存在で、業界内では「阪神は小津か久万のどちらかがトップになる」と言われ続けてきた。

その久万氏が阪神球団のオーナーとなったのは1984年。安藤監督でシーズン4位の成績に終わると、「小津さんには辞めていただく」とライバルのクビを切り、自身がトップに座る。ここから本腰を入れてタイガースを強くする――そう思われていたのだが、久万オーナーには明確な「功」と「罪」がある。

まずは「功」の部分。なんといっても経営を安定させたことである。どんなに負け続けても儲かるしくみ――なぜ、このような経営が可能だったのか、いまもって不思議で、いろいろな人に聞かれても、明確な答えが出てこない。「阪神七不思議」というものがあったら、そのうちのひとつと見てもいいくらいだ。

普通、ぶざまな負けが続いたら、球場に行かない、グッズを買わない、スポーツ紙を買わない、阪神戦を中継しているテレビを見ない……と、ここまで徹底してもいいものだが、阪神ファンは、これらとまったく正反対の行動を取っている。「できの悪い子ほどかわいい」とはよく言ったもので、当時の阪神のチーム状況は、まさに「できの悪い子」だった。

球団に対してお金を使わない

「罪」の部分は明快で、「チームを強くできなかったこと」だ。1990年代の終わり以降は野村さん、星野さんを監督に招聘しょうへいするまでは、球団に対してお金を使うことなく、自前でなんとか賄おうとしていたフシが強い。

オーナーが球団に対して、これだけドライな考え方だったからこそ、肝心の現場にいい選手は外部から入ってこなかったのだ。それを象徴するのがFAによって獲得した選手の数である。

阪神は1993年にこの制度が施行されてから1998年までの6年間で獲得したのは、オリックスの石嶺和彦(1994年)、山沖之彦(1995年)の二人だけ。

同じ時期に、巨人は中日の落合(1994年)、ヤクルトの広沢克己(1995年)、広島の川口和久(1995年)、日本ハムの河野博文(1996年)、西武の清原和博(1997年)と5人を獲っている。

巨人のこうした補強に対しては、「横取りしすぎ」「いい選手は誰でも欲しがる」と批判的な意見が多いが、本来であれば、ファンから暗黒時代などと呼ばれ、低迷期真っただ中にいた阪神こそが、巨人が獲ったレベルの選手をイの一番に補強しなければならないはずだ。

阪神が思い出したくないほど長く低迷が続いた要因のひとつは、こんなところからも垣間見える。