企業が求めているのは「陽キャ」な若者

市民社会は「若者は外に出るな。感染を広げるな。家でじっとしてろ」と若者たちに暗黙的なプレッシャーをかけていたものの、企業社会はそれを真に受けて「無気力」をやってしまうような若者は少しも欲しがっていなかったのだ。そんなプレッシャーに屈することなく、諦めずに自分たちでできる範囲でやれること・やるべきことを見出すエネルギッシュで行動力のある「陽キャ」な若者を歓迎していた。

世の中の大人たちは本音では「無気力な(陰キャな)若者はいらん」と相変わらず思っていたのに、しかし表面的・建前的には「無気力でいることに善性」を付与するような社会的メッセージを発するという、もちろん当人たちとしてはダブルスタンダードのつもりはなかったのだろうけれど、結果論的には「正直に信じた者がバカを見る」状況を生んでしまった。

ようするにコロナの3年は――だれかがそれを明確に企んだわけではなかったのだが――企業社会ではなるべく門前払いしておきたい「無気力」な人間をより高精度に炙り出す一種のフィルターのような働きをしてしまったということである。

社会がそれを正義だと推奨するからと「お言葉に甘えて」家でじっとしていた若者たちは――社会に言われたことを従順に受け入れていただけなのに――いざ就職の段になったときには「無気力になにもしていなかったような奴はいらないからね」と撥ねられてしまったのである。

立ち尽くす男性の後ろ姿
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「時代の犠牲者」としての側面は否定できない

コロナ前に採用面接にやってくる若者はみな中間的というか、だれを見てもそれなりにできるような、あるいはそうでもないような、つまりよくわからないような人も多くて、評価する側は頭を悩ませていた。だが最近はずいぶんと「採るべき人/そうでない人」が見えやすくなったような気がする――そんな感想を、もしかしたらいまこの文章を読まれている方も、自分自身で感じていたり、あるいは周囲から見聞きしているかもしれない。おそらくそれは偶然ではない。

もちろん「無気力派」なかれらだって、みんながみんな好きで家でじっとしたわけではなく、国や大学からの要請に善かれと思い従ってそうなったという犠牲者的な側面があることは否定できない。だが、そんなことを申し立てたところで、社会の側が責任を取ってくれるわけがないのもまた分かり切っていたことだ。