当時からすでに起業の波は高まっていて、大企業からベンチャーへと転職する若手はそれなりにいました。ただしその時代は、既存ビジネスが衰退することへの不安が契機になって挑戦していたと思います。

ところが、現在は「この安穏とした職場にいては社会で通用しなくなる」という不安が若手を転職に駆り立てているようです。

比喩的に「背伸びをする」というのは「実力以上のこと」を試みることです。子どもが「背伸びをして」といわれる時は、ちょっと咎められるようなニュアンスもあるでしょう。

しかし、仕事をする時に「実力以上のこと」をする機会がなければ、成長はあり得ません。そんな当たり前のことがなぜ見失われてしまったのでしょうか。

オフィスにいるビジネスマン
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バランスは目的ではない

そのもっとも大きな理由は「なぜ働くのか」ということを、きちんと議論したり考えたりしないままに、「働き過ぎない」ことが目的化したからだと思います。

その象徴に、ワーク・ライフ・バランスという言葉があります。仕事とそれ以外の生活の均衡を探っていこう、という趣旨は当たり前のことだと思います。ただし、日本では「働き過ぎている」ということが前提になったので、「ワーク」の負担を削減することがその主旨になってしまいました。

しかし、本当に大切なことは「働くことの意味」だと思います。つまり、働くことで喜びが得られたり、誰かの役に立つという実感が得られたりすることではないでしょうか。

哲学者の鷲田清一さんが働くことについてこんなことを書いています。

問題はやはり仕事の質であり、内容である。あるいは、内容ではなく、仕事のしかたである。労働時間の減少がかならずしも仕事のよろこびにつながるわけではない。それよりも、わたしたちの仕事から、かつて仕事のよろこびといわれたものがどんどん脱落してきた事実にこそ着目する必要がある。仕事が貧しくなっている(それとともに遊びも貧しくなっている)、そういう事態を凝視する必要がある。(『だれのための仕事』講談社学術文庫)

「ブラック企業だ」と揶揄するのは誰のためにもならない

この本の原本は1996年に書かれています。つまり、一連の働き方改革がおこなわれるより、20年ほど前です。しかし、ここで書かれているような視点で働き方は改革されたのでしょうか。

ちなみに、この本のサブタイトルは「労働vs余暇を超えて」とあります。ワークとライフの「バランス」と捉えること自体に問題提起がされているのです。

仕事と、それ以外の生活の均衡は人によって異なります。初めからバランスを目的にするのではなく、その時の状況に応じて調整しながら結果として最適なバランスを見つけることが大切なはずです。

ここぞというときには少々の負荷がかかっても仕事を頑張りたい。そういう自然な気持ちで働いているときに、「ブラックだ」と揶揄するような空気は、結局誰のためにもならないはずです。