理性的な愛と尊敬とは何なのか

尊敬についても同じです。

「尊敬もまったく同様に、単なる主観的なもの、すなわち特殊な感情であって、(それを引き起こしたり、促進したりすることが義務であるような)ある対象についての判断ではない」(Ak VI 402.)

尊敬もまた感情であり、持ったり、持たなかったりといったことを自ら判断するようなものではないのです。

愛や尊敬というのは感情であり、自分の意志ではどうにもできないのであれば、それらを必要とする友情を持つようにコントロールすることもまたできないことになるのではないでしょうか。だとするとカントの説明は破綻していることになるのではないでしょうか。

いえ、カントの言っていることが破綻しているという(身も蓋もない)話ではもちろんありません。ここで押さえるべきことは、愛や尊敬には確かに感情という側面があるものの、理性的な側面もあり、カント自身もその存在を想定しているという点なのです。まずは理性的な愛について見ていこうと思います。

感情としての愛は人を盲目にさせる

ここでの愛は、(感受的)感情であるとは──すなわち他人の完成を喜ぶ快感としても、好感という愛としても──解されえない。
Ak VI 449.

この説明だけでは具体的な姿は見えてきませんが、ただカントが感情的ではない、理性的な愛を想定し、それについて語っているということは読み取れると思います。

もう少し詳しく見ていこうと思います。カントは先の引用文の後で以下のように続けます。

「人間愛(博愛)は、ここでは実践的なものとして考えられ、従って人間に対して懐く好感という愛として考えられているのではないから、能動的好意のうちに置かれなければならず、それゆえ行為原理に関係している」(Ak VI 450.)

理性的な愛とは、「人間愛」や「博愛」と言われ、能動的に行為原理に関わるものとされているのです。

さらに補足説明すると、感情としての愛から直接行動に出るとすると、たとえば、好きだから相手に対してしつこくつきまとうとか、相手を拘束するといったことにもなりかねないのです。感情としての愛は人を盲目にさせるのです。(Vgl. Ak VI 471; vgl. Ak VII 253.)だからカントは、感情としての愛をそのまま野放しにしておくのではなく、理性的な愛によって抑制的に行為すべきであると言うのです。