大阪都構想は大阪市と府を合体するという巨大なM&Aのようなもの。ふわりとしたアイデアや直感的な発想だけでは実現なんて不可能です。高度な知見を持つ専門家と、現場の運営能力を持つ役所の職員たちとの活発な議論や連携、調整力やシミュレーションが必須でした。

そこで僕は次のような順序で実現を目指すことにしました。まず2010年に地域政党の大阪維新の会を結成し、11年の統一地方選挙で大阪府議会、大阪市議会の議席を取りにいきました。その後、僕自身は大阪府知事を辞職して大阪市長選に立ち、大阪府知事には盟友の松井一郎さんが立候補し両名が当選しました。すべては大阪都構想実現のための布陣です。11年の選挙で大阪都構想の大まかな提案を行い、有権者に是非を問う。知事、市長、府議会、市議会において権力を握ってから、役所をフル稼働し具体的なシナリオを作る。そして最後にそのシナリオについて住民投票を行うという段取りでした。

僕が11年に掲げた当初の大阪都構想はふわっとしたアイデアレベルでした。財政制度や新設する特別区の区割り、都庁と特別区役所の人員配置など考えなくてはならない項目は膨大にありました。そこで11年の選挙においては大阪都構想の是非を問うのではなく、そのシナリオ作りをさせてほしいということを訴えて、選挙の勝利後、公約通りに役所組織を挙げて大阪都構想の具体的なシナリオ作りに着手したのです。

本来は「シナリオ案→投票→実行」の順序で

そうして具体的なシナリオを完成させ、満を持して迎えた15年、その是非を問う住民投票に挑みました。結果は否決という残念なものとなりましたが、しかし、仮に大阪都構想が可決となった場合でも、ブレクジットのように国民投票が終わってから、これが問題だ、あれが問題だと問題が噴出し、どのように離脱していいのかわからないという大混乱には陥ることなく、即座に大阪都構想の実行に移すことができたと確信しています。

それは住民投票を実施する前に、大阪都構想を実現するにあたっての膨大な問題点をすべて洗い出し、その対策をシナリオ案にしっかりと講じていたからです。つまり大阪都構想をスムーズに実行できるシナリオをしっかりと作り上げてから住民投票に臨んだのです。

ここで大事なことは、「シナリオ案→投票→実行」が本来の順序であり、決してその逆ではないということです。ところが、イギリス政府はEU離脱を「投票→シナリオ案」の順で進めてしまった。ゆえに離脱を決めた国民投票後に「では離脱をどのように実行するのか」と具体的なシナリオを考えれば考えるほど、様々な不具合が噴出してしまったのです。