「関ヶ原の戦い」には、いったいどんな意味があったのか。小説家の安部龍太郎さんは「『西国大名の重商主義』と『東国大名の農本主義』の対決であり、国家再建の政策をめぐる戦いだったと捉えるべきだろう」という。安部さんの著書『徳川家康の大坂城包囲網』(朝日文庫)より、一部を紹介する――。
「関ヶ原合戦図屏風」
「関ヶ原合戦図屏風」(画像=岐阜市歴史博物館より/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

戦国の争乱は南蛮貿易なしでは成立しない

関ヶ原の戦いの意味を知るためには、戦国時代とはどんな時代であったかを正確にとらえ直す必要がある。

従来は鎖国史観にとらわれていたために、戦国の争乱を国内的な視野だけで解釈してきた。ところが最近では鉄砲に使う硝石(火薬の原料)も鉛(弾の原料)も、大半は海外からの輸入に依存していたことが明らかになった。

織田信長は鉄砲の大量使用によって天下を取った(取ろうとした)と当たり前のように言われてきたが、鉄砲を使うために必要な硝石や鉛をどうやって入手したかという視点はすっぽりと抜け落ちていた。

ところが近年、この二つが輸入に頼っていたことが明らかになったために、戦国の争乱を鎖国史観で語ることは完全に無意味になった。そしてこの二つが主に南蛮貿易によって入手されていたことも分ったために、ポルトガルやスペイン、そして両国との仲介役を務めたイエズス会の存在がきわめて重要視されるようになった。

戦国時代は大航海時代というグローバル化の大波の影響を抜きにしては語れないことが明確になったのである。南蛮貿易の相手国は、初めはマカオに拠点をおくポルトガルで、イエズス会はポルトガルのために外交官と商社マンの役割をはたした。

「南蛮人渡来図」
「南蛮人渡来図」(画像=狩野内膳画/神戸市立博物館蔵/リスボン国立古美術館サイトより/PD-Japan/Wikimedia Commons

世界は日本の金銀、硫黄を欲しがった

イエズス会の仲介がなければ南蛮貿易に参入できず、硝石や鉛を入手できない。西国(特に九州)の多くの大名が競うようにキリシタン大名になったのは、信仰の魅力ばかりではなくこうした現実的な問題もあった。

南蛮貿易における日本の最大の輸出品は金や銀だった。石見銀山、生野銀山などで生産された純度の高い銀は世界の垂涎すいぜんの的になり、日本にシルバーラッシュをもたらした。

次に重要なのは硫黄である。これも火薬の原料として欠かせないものだが、東アジアには良質の硫黄はあまり産出しない。そのため植民地獲得競争をくり広げていたポルトガルやスペインなどは、日本の硫黄を喉から手が出るほど欲しがった。

こうした貿易の活発化によって日本もグローバル化に参入していったが、そのために国内でも大きな変化が起こった。ひとつは商品と貨幣の流通量が飛躍的に増大し、経済の中心を商人や流通業者が担うようになったことだ。

もう一つは農本主義的な制度だった室町幕府の守護領国制が崩解し、商業、流通を現地で支配していた戦国大名が台頭してきたことである。