リクルーターにとって実行犯は「ゲームの駒」

――タタキには犯罪ゲーム的な印象もあります。簡単に参加してしまうのはゲーム感覚なのでしょうか。

【塩田】ゲーム感覚については、リクルーターと実行犯で異なるリアリティが広がっています。リクルーターは、タタキの手順をかなり事細かに説明します。「自分は素人だからできない」と答えると、「電話で指示を出すから大丈夫」という。

実際、被害に遭った店舗や民家の防犯カメラ映像を見ると、携帯電話を片手に金品を物色する実行犯の姿が映っています。リクルーターや指示役にとって、実行犯はゲームの駒と同じで、操作するもの。現場にいないから身体性もない。彼らにとってタタキはバーチャルなゲームに近しい感覚だと思います。

一方、実行犯に情報として知らされるのは集合時間と集合場所だけ。僕もリクルーターからタタキを紹介されたとき、粘って民家に押し入ることは聞きだしましたが、何人家族なのかも教えてもらえませんでした。

宮台さんは「仲間以外はみな風景」と言いましたが、リクルーターは実行犯に風景すら見せようとしないのです。情報が何もないから、実行犯にはおそらくゲーム性を持ってドライブしていくような感覚はありません。現場で生身の人間を前にして、縛ったり殴ったりして初めて風景が立ち上がっていくんじゃないかと思います。

自分がよければ他人を傷つけても構わない心理

【宮台】印象深い観察です。89年の宮崎勉・幼女誘拐殺人事件から「現実と虚構の区別がつかないオタクが犯罪をする」と言われるようになります。でも、フィールドリサーチすれば分かるけど、区別できない人などいない。現実と虚構の区別がつかないのではなく、虚構より現実を尊重するべき理由がないだけ。そんな感覚で捉えられた現実を「ゲーム感覚」と呼びます。現実をゲーム感覚で捉える人に欠けるものは何か?

宮台真司さん
撮影=門間新弥

本来の現実には、人に大切にされたり人を大切にしたりする喜びがある。通信ゲームでNPC(ノンプレイヤーキャラクター)を助けたり助けられたりしても、さしてうれしくない。ゲームは楽しくても、現実でしか感じられないものがある。ゲーム感覚で捉えられた現実は、現実の枝葉に過ぎません。昔はそれをわきまえられるように育ったのに、今そうでなくなったのも、第3段階の郊外化=個人空洞化の帰結で、現実が空っぽだからです。

――遊興費のためにタタキをするという話がありました。自分がよければ他人を傷つけても構わないという自己正当化の心理についてはどうでしょうか。

【塩田】狛江市で別の実行犯グループが90歳女性を殺害したとき、やりとりしていたリクルーターにすぐに電話をかけました。彼は明らかに動揺した様子で、「自分たちのグループがついに人命まで奪ってしまったことに、さすがに心を痛めているのだな」と思ったんです。