人間はどんな死でも死にうる存在である

火葬場に行くと、ずらっと並んだ焼却炉の前で、こちらはけっこうな人数、あちらは2、3人ということがある。見送る人が数人か、かわいそうに、と思ってはならない。人数の多寡、規模の大小など、大したことではない。それに、こっちの多数はほとんどが義理、あちらは真に親密な人、ということだってあるのだから。

勢古浩爾『脱定年幻想』(MdN新書)
勢古浩爾『脱定年幻想』(MdN新書)

人間はどんな死でも死にうる存在である。わたしみたいに真の厳しさを知らず、ぬくぬくと暮らしている人間がいってもなんの説得力もないが、わたしはそう考えている。むろん、嫌な死に方というものはあるが、それをいってもどうにもならない。自殺でもしないかぎり、自分で死に方は選べないからである。

わたしはどんな死に方をしても、文句はいわない。山ほど後悔するかもしれないが、文句はいわない(いえないのはそのとおりだが、いえたとしても)。ほとんどの死は偶然であり、自余じよのことは、わたしが自分で決めたことだ。孤独死という事実はたしかにあるが、「孤独死」という言葉は愚劣である。その死を見る視線も愚劣。

【関連記事】
これができないと孤独な老後が待ち受ける…75歳・弘兼憲史が「60代になったら徹底すべし」と説く会話中の態度
預貯金や貴金属を盗まれても文句すら言えない…虐待や死亡事故が相次ぐ"無届介護施設"の悲惨な実態
生きたまま皮膚と肉を削がれて息絶えた…最古の女性科学者が残酷な死を遂げた理由
登るためならマルチともつながる…手指を9本失い、エベレストで滑落死を遂げた登山家が費用を工面した方法
江戸時代の日本人は決して幸福ではなかった…明治維新を批判する人が誤解している「江戸時代の10大問題」