目に見えない「社会現象」のつかまえ方
まず、この本の掴みの部分の議論が興味を引き立てます。小説でも落語でもドラマでも、読んでみよう聞いてみよう見てみようと思わせる読者の姿勢をつくりだす「つかみ」は大切です。研究本も同じです。
ヨーロッパにおいて資本主義経済は、全域で一斉に花開いたわけではありません。主に、プロテスタントが集まっている地域において経済が繁栄しました。そのことにウェーバーは着目しました。そして、「資本家や企業の所有者だけではなく、教養の高い上層の社員たち、とくに近代的な企業のスタッフで技術的な教育や商業的な教育を受けている人々のうちでは、プロテスタント的な性格の強い人々が圧倒的に多数を占める」ことを見つけ出します(マックス・ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』中山元訳、日経BPクラシックス、2010年、9頁)。この話は、ウェーバーがこの研究を始めた時点で、すでに相当知られていた話のようです。ここから話が始まります。
題名に示されるように、資本主義の「精神」とプロテスタンティズムの「倫理」との関係を探るのが課題です。その課題に迫るためには、なによりも「資本主義の『精神』とプロテスタンティズムの『倫理』とは、何か」を、明確に定義する必要があります。しかし、これはなかなか難題です。
というのも、たとえば「年齢と自殺率の関係を調べよ」と言われたとしても、何となくその調査手続きはわかります。たとえば、表に、年齢ごとの自殺率を示す何かの指標をプロットしていけば、年齢と自殺率の関係の傾向はわかるでしょう。しかし、「時代の精神と特定宗教の倫理との関係を調べよ」言われると、さて皆さん、どうでしょうか。どこから手を付けてよいものか、途方に暮れてしまうでしょう。精神も倫理も、目には見えず手にも触れない存在ですので、そうやすやすと関係を見極めることはできません。それどころか、「本当にその時代に、そうした精神があったの?」とか、「その宗教のその倫理、本当に人々の心の中にあったの?」とか、それらの存在すら疑えば疑わしいものです。
余談ですが、こうした「目に見えない、手に触れることができない、それ自体存在するかどうかもよくわからない、そうした社会現象」を、どう研究の俎上に載せればよいのか難しい話です。しかし、ビジネスの世界でも、市場調査担当の方なら、そうした現象をどうして掴むのかの問題に答えなければならない機会はあるのではないかと思います。
その難しい話に応えるのは、社会・文化の研究(social and cultural studies)の真骨頂でもあります。たとえば、わが国でも、古くは九鬼周造が『いきの構造』で、「いき」というわけのわからない(つまり、「その意味を了解したものだけが理解できる」)現象を俎上に乗せました。また、土居健郎は『「甘え」の構造』で、そして山本七平は『空気の研究』で、そうした現象を取り上げています。「あるといえばある」し、「ないといえばないかも」といった、「その意味を了解した者だけが理解できる」現象を扱うウェーバーのこの研究はその先駆けでもあります(ビジネス世界における意味と了解の問題については、拙書『マーケティングの神話』[岩波現代文庫、2004年]を参照)。
閑話休題。さて、ウェーバーは、こうした課題を乗り越え、そして歴史的な文献をたずね、それら資料を緻密に分析する中で、プロテスタントのある教派の教義が指し示す倫理が、資本主義の勃興のいわば精神的支柱になった可能性を明らかにしました。その教派が資本主義の勃興に対して好意的だったかどうかとはまったく関係なく、教義を守るその倫理(「誠実に働け」、そして「働いて得た成果を無駄に使うな」)が、資本主義の勃興時の企業家の姿勢にふさわしいものだったのです。
あらためて言うのもなんですが、本書は、社会についての研究書として、お手本になるものです。1つ1つの細かい現実をさまざまな資料を用いて緻密に丁寧に検証し、全体を組み立てていきます。地味な仕事です。しかし、あらためて、学者の仕事の本分は何かを教えてくれます。もう一つ、現象に潜む相関関係の摘出、複雑な概念・現象の測定手法、そして歴史資料の分析、そして最後の結論の含意に至るまで、まるで社会を研究する「方法」と「見方」がすべて揃っています。