ユダヤ教を広めるうえでの大きな壁に

一般に割礼は、子どもが生まれてすぐの段階で行われるものですが、改宗ということになれば、対象者は大人の男性です。その点で、かなりの覚悟が必要ですし、いったん割礼を施されれば、もとの状態には戻れません。したがって、この割礼がユダヤ教へ改宗することの大きな壁にもなっています。

ユダヤ法は、一般の法律とは異なりますから、それを破ったからといって刑罰が下されるわけではありません。その点では、割礼を行わずにユダヤ教に改宗することもできますが、ユダヤ人の女性のなかには、割礼を受けていない男性とは性的な関係を結びたくないと考える人が少なからず存在します。

キリスト教に改宗するなら「洗礼」を受けることになりますが、それによって身体に傷を負うわけではありません。ところが、割礼となれば、はっきりとその跡が残ります。裸になれば、割礼を受けているかどうかが一目で分かります。

ユダヤ教の信者を少しでも増やそうというのであれば、割礼という壁がない方が有利に働きます。地政学的な戦略としては、洗礼のような割礼に代わる方法を見出していった方が望ましいことになります。

それでも割礼を続ける理由は「選民思想」

しかし、ユダヤ教徒にとって、割礼は極めて重要な意味を持っています。信仰の核心を形成するといってもいいでしょう。割礼を受けていることは、神によって認められた証であり、そこにユダヤ教特有の選民思想の根本があるのです。選民思想の形成は、ユダヤ人が経てきた苦難の歴史と深いかかわりがあります。

古代のユダヤ人がどのような歴史を歩んできたのか、それはトーラーに記されています。キリスト教の旧約聖書ではそれを「モーセ五書」と呼びます。

トーラーは、日本で言えば『古事記』や『日本書紀』にあたるものです。ユダヤ人の歴史を記した形をとってはいますが、神話として考えなければならない部分を多く含んでいます。創世記の天地創造の物語はまさに神話です。

せっかく授かった子どもを犠牲にするよう神に命じられ、それに素直に従ったことで信仰上の模範とされるアブラハムは、子どもを授かったときには100歳で、妻のサラも90歳でした。アブラハムは137歳、サラは127歳で亡くなっています。90歳の女性が子どもを生むなど、まったくあり得ない、神話のなかだけの話です。