ソ連に対して、和平の仲介など望むべくもなかった

ソ連はこの年4月に、日ソ中立条約を延長しないと申し入れています。この条約は翌1946年の4月24日で失効するはずでしたが、あえて通告する意味はわかるでしょうという暗示的な言葉を、ソ連は強く用いました。

和平の仲介など、ソ連に対して望むべくもなかったわけです。現実味のない和平仲介の可能性にすがったのは、大きな問題でした。

そもそも1943年11月に出されたルーズベルト、チャーチル、中国の蒋介石によるカイロ宣言をよく読めば、はかない希望は抱かなかったはずです。そこには、日本が無条件降伏するまで戦うことと、戦後の処理方針が話し合われていたからです。

ポツダム会談を前に撮影された左からチャーチル首相、トルーマン大統領、スターリン首相。
ポツダム会談を前に撮影された左からチャーチル首相、トルーマン大統領、スターリン首相。(写真=U.S. National Archives and Records Administration/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

ソ連が満州への侵攻を早めたわけ

私は、今年1月に亡くなった作家の半藤一利さんと、『21世紀の戦争論 昭和史から考える』(文春新書)という対談本を出したことがあります。そこで半藤さんは、こうした見立てをお話しになりました。

五月八日にドイツが無条件降伏して、ソ連がドイツの息の根を止めることに成功します。すると、英米はソ連の対日参戦に懐疑的になるんですね。もはやソ連の力を借りなくても日本を叩くことができると考えたんです。何よりも、スターリンの野望に懸念を抱き始めた。スターリンは、戦争終結後の話し合いによってではなく、あくまでも武力で領土を押さえることに固執していましたから。戦後の世界秩序に関わる問題です。

そうなると、日本と戦っているアメリカとしては、なんとかソ連参戦前に日本を降伏させたいという考えに傾いていく。ルーズベルトの「無条件降伏」政策の煽りで最後の一兵まで戦うつもりの日本に、一刻も早く手を上げさせるにはどうすればいいか。そこで浮上したのが、原爆だったのではないか。反対に、スターリンとしては、自分たちが参戦する前に、日本に降伏されては困るわけです。

半藤さんは、7月17日から8月2日まで行われたポツダム会談の際に、アメリカが原爆の実験に成功したことをスターリンが知っていたかどうか、私に尋ねました。スターリンは、ポツダムに到着した翌日、満州への侵攻を予定の8月15日から9日に繰り上げるよう、命令しているからです。