卒業後も2人の交遊は続く。政治の世界に挑んだ「恥ずかしがり屋の友」の姿に心を打たれ、秋葉さんは大きな決断をした。MIT留学時代のルームメイト、前広島市長・秋葉忠利さんが語る、わが友・大前研一。

卒業パーティの夜

大前氏とルームメイトだった期間は2、3カ月間のことです。寝室が一緒だから生活のリズムが違うと安眠できないし、ガールフレンドを連れてくることもできない。そのうちに大前氏は一軒家を見つけてきて友達と一緒に借りることになり、同じ時期に私も数学科の友達が暮らしている一軒家のルームメイトがいなくなったので、そちらに移りました。

共同生活を解消してからは接触がぐっと減って、たまに「パーティやるからこない?」などと誘い合って、顔を合わせる程度に。私は私で数学科の友達や、そこから派生したネットワークの中でハーバードの学生とか、いろいろな付き合いが広がっていきました。

当時、日本では学生運動が盛んでしたが、アメリカでもベトナム戦争反対のデモや学生集会が結構あって、先生が「集会に行ってもいいよ」と授業を中止するようなこともありました。大前氏が政治的にどんな活動をしていたかはよくわかりませんが、私は私の仲間とワシントンのデモに参加したり、集会で発言したり、もちろん数学の勉強もしながら、時代の熱気に浸っていました。

私は日本での大学1年のときから、8月に開催される原水爆禁止世界大会の同時通訳をやってきました。大江健三郎さんは1963年に広島にいらして大会に参加した体験を元に『ヒロシマ・ノート』を書かれましたが、同じとき私は通訳ブースの内側で会議の模様を訳していました。

MIT卒業時の大前さん(の後ろ姿)。手を繋いでいるのは、姉・伶子さんの娘さん(大前伶子さん提供)。

MITの卒業は1970年6月。大前氏と一緒です。卒業式の夜、あちこちで卒業記念パーティが開かれます。私も自分が住んでいた家でパーティを開きましたし、大前氏も自分たちのパーティを開いていました。いろいろなパーティを互いに行き来しては、卒業を祝い、別れを惜しみ、今後の健闘を誓うのです。

その夜、大前氏はいくつかのパーティを回って、最後に私たちが主催するパーティに顔を出してくれたように記憶しています。そのとき人生をともに歩む女性ジャネット夫人を初めて紹介してくれました。恥ずかしがって大前氏の後ろに隠れるようにしていた姿が印象的でした。

若くて美人で頭が良い彼女を自慢する機会はいくらでもあったのに、最後の最後でけじめをつけて紹介するあたりが、大前氏らしい気がしました。