小林に、絶対的な“個”を確立させた2つの強烈な体験は、20代の青春時代にさかのぼる。小林は、山梨県の名門校甲府第一高校を卒業後、東京大学教養学部の基礎科学科に進学したが、ここで学ぶ学生の関心は2つだった。次代を担う原子力か、それともDNAの二重螺旋構造が解明されて以来(62年にノーベル生理学・医学賞受賞)、急速に関心が高まっていた分子生物学を学ぶのか。

小林が選択したのは前者の原子力の領域の中の“放射線”だった。当時、同分野の最先端は、ヘブライ大学(イスラエル)で、小林は同大学に照準を合わせた。

そして72年に、小林は国費留学生として同国入りする。この年は、イスラエルとアラブ諸国間の紛争や、テロが頻発するなど国際情勢上、激変の年である。

同年には、イスラエルのテルアビブのロッド空港で、日本赤軍が銃を乱射して、26人を殺害、73人が重軽傷を負う事件が起きている。ミュンヘンオリンピックの最中にイスラエル選手団がテロ行為を受け、11人が亡くなる事件が起きたのも、この年であるが、同じく小林も一生涯忘れられない光景を目撃する。

「自分はなぜ生きているのか。自分の存在はどのような意味があるのか」

小林は学生時代の頃からある思いに悩んでいた。

「大衆の中における、自らの存在感の希薄さとはどこからくるのか」

イスラエルの砂漠を訪れたとき、灼熱の熱気がつくり出す蜃気楼の中に黒いショールを纏い、ヤギを連れた女性を目撃する。この世のものとは思えない光景に、小林は言葉を失い、ただその光景を見つめて思った。

「人間は存在するだけで美しく、素晴らしい。ならば、精一杯生きよう」

今も記憶に残る20代に活写された一枚の光景が小林の人生を動かしている。その1年後、ヘブライ大学への留学からイタリアのピサ大学へ学問の場を変えた。

「イスラエルでは人生の真理を学び、イタリアでは人生の快楽を学んだ」

このニ国への留学が、小林の人生観に及ぼした影響は決定的だった。

そして小林は、74年に帰国。東大の大学院で学問の道を究めることもできたが、すでに結婚していて、子どもがいたこともあり、民間の旧三菱化成に入社する。そして、中央研究所に配属されたのはすでに28歳のときだった。

しかしながら、年功序列の企業社会、特に伝統と格式を重んじる「三菱」という組織の中では、小林は完全な“外れ者”だった。そして、中央研究所勤務のエリートから一転し、海のものとも山のものともわからない光ディスクなどを扱う

「記録メディア」の分野に自ら手を挙げて異動したとき、37歳になっていた。

(文中敬称略)

※すべて雑誌掲載当時

(川本聖哉=撮影)