「読む」ことが特別なことになる逆転現象

理由は考えてみれば明白だ。僕たちの世代にとって、「読む」ことと「書く」ことでは前者が基礎で後者が応用だった。「読む」ことが当たり前の日常の行為で「書く」というのは非日常のちょっと特別な行為だった。

けれどもいまはたぶん、違う。多くの人にとっては既に(メールやSNSに)「書く」ことのほうが当たり前の日常になっていて、(本などのまとまった文章を)「読む」ことのほうがちょっと特別な非日常のことになっていると思うのだ。情報環境の変化が「読む」ことと「書く」ことのパワーバランスを大きく変えているのだ。

要するに、僕たちは「読む」ことの延長線上に「書く」ことを身につけてきた。しかし、現代の人々の多くは既にそうはならないだろう。彼ら/彼女らの多くがおそらく「書く」ことに「読む」ことより慣れている。

僕がこの講座をはじめようと考えたきっかけの一つが、SNS上でのコミュニケーションの安易さだ。たとえば「全体としてはAという傾向がある」と主張している人物に対し、(話題のもとになった記事や、前後のツイートすら確認せずに)「それにはBというケースもある(ので、私はあなたから一本取りました)」とドヤ顔でリプライを送る人はすごく多い。

「読む」力がないと中身のある発信はできない

これは、単にその人が自分が思っているよりも安易で頭が良くない、という問題であるのと同じくらい「読む」ことに慣れていない人が「書く」ことだけ覚えてしまっていることに原因があると思うのだ。SNSのシステムに促されるままに、みんなそうしているからと安易な「発信」を繰り返していくと、どんどんバカになっていくというのが僕の持論だ。

Web2.0的なものの背景にあった、人間は単に受信するだけではなく、発信することによってより情報に対して深く、多角的に考えるようになる、という前提は根本から疑ってかかったほうが良いだろう。「読む」力のない人間が「書く」ことの快楽を覚えれば覚えるほど、脊髄反射的な発信やタイムラインの「潮目」を読んである方向に一石を投じるだけの、事実上何も考えていない発信が増えてしまう。

そこで僕が以前から提唱している「遅いインターネット計画」では、まず徹底的に「読む」訓練を読者に対して行おうと考えている。しかし、計画を進める上でそれだけでは足りないのではないか、という思いが強くなってきた。