本音と建て前を使い分ける「器用さ」がなかった

そもそも私は、自分の気持ちをごまかすことができません。

日本人は本音と建て前を使い分けると言われます。表では相手に賛同したり、賞賛しておきながら、裏では相手を否定したり悪口を言うわけです。

そういうことが、私にはどうも気持ちが悪い。これも正直だというよりも、ある意味での不器用さなのだと思います。

だから、思ったこと、感じたことを素直に相手に伝えてしまう。そうしないと、気持ちが落ち着かなくなるのです。

上手に演技してごまかすことができる人なら、本音を隠して立ち回ることができるでしょう。でも、それができないのです。

もう何十年も前になりますが、ある雑誌で石原慎太郎さんと対談したときのこと。当時、石原さんは衆議院議員として活動を始めた頃でした。作家としての石原慎太郎に対しては、私は大変リスペクトしていました。

私も若かりし頃、作家を目指していました。ところが、石原慎太郎という若い作家の『太陽の季節』という小説を読んで、衝撃を受けました。こんな作品は自分には書けない。

小説家としての才能を悲観し、作家をあきらめたという経緯があったからです。ちなみに石原さんはその作品で芥川賞を受賞しました。

しかし、政治家としての石原慎太郎はどうなのだろうか? 作家の彼ほどに、明確な像を結びません。

「石原さん、私はあなたが政治家として何をやったかよくわからない。作家としてのあなたは認めるが、政治家としての石原慎太郎は認めない」

思ったことをはっきりと言ったら、石原さんはムキになりました。こんなことも、あんなこともやった、と。「知らない方が悪い」と言うのです。

でも、私は「政治家ならもっとわかりやすく、国民に向けて発信しなきゃいけない。私が知らないということは国民だってよくわからないはずだ」と言い返しました。侃々諤々、言い合いになったのです。

ところが雑誌が出た後、石原さんの事務所から連絡が来て、あの対談を今度講演で使いたい、と言うのですね。

私はとても驚きました。石原さんは、本音で話をしたことで実のある対談になったことを、素直に認めたわけです。私は石原慎太郎という人間を「面白い男だな」と見直しました。

それで石原さんと会って、いろいろ話をしました。「自分はタカ派と言われているけれど、じつは自民党のハト派の人たちと真剣に話をしたことがない」と彼は言う。

「田原さん、誰か取り次いでくれないか?」と言うわけです。私はそこで加藤紘一さんとか羽田孜さんを紹介しました。

本音で語り合えば、ぶつかることもあるでしょう。でも、そこからお互いに理解し合い、信用し合うことができるのです。

いまの若い人たちはバランス感覚がいいと思います。お互いが本音でぶつかるのが野暮ったくて、面倒に感じるかもしれません。ただ、不器用な私は、相手と本音でぶつからないと逆に落ち着かない。前に進めないのです。

でも、本音でぶつかって悪い結果になったことは、じつはほとんどありません。

むしろ石原さんのように、理解し合えて関係が深まったことの方がはるかに多いと思っています。

予定調和が一番つまらない

本当のことだとか本音を言うと、相手が怒ってしまうんじゃないか? 関係がそこで終わってしまったらどうしよう、などと心配する人が多いようです。

とくに相手が目上の人になるほど、ビビってしまって本音が言えなくなるそうです。

私自身、自分は気が強いとは思っていません。むしろ気が小さい人間です。だから、ビビる気持ちもよくわかります。

ただし、気が小さい反面、同時にどこか開き直りがあります。

本音をぶつけても何とかなる。相手が怒ったら、それまで――。

さらに言うなら、本音をぶつけたときに相手がどう出るかを知りたい、ある種の好奇心があるわけです。むしろ、予定調和が一番つまらない。

それは、私がジャーナリストだからというのも大きいでしょう。

ジャーナリストは、真実や事実を知りたいという読者のために、読者に代わって相手に取材をします。そして、それを伝えるのが役割です。けっして相手と仲良くなるために仕事をしているわけではありません。

波風立てず、相手の言うことを頷いて聞いているだけでは、相手は本音を語ってくれません。相手から本音を聞き出すには、こちらも腹を据え、開き直って本音で勝負しなければならないのです。

そういう職業意識が、ふだん気の小さい私を大いに鼓舞し、開き直らせる力になっているということはあるでしょう。