羽生選手の絶大なる人気は、リンク上での抜群のパフォーマンスはもちろんのこと、その容姿や人柄によるところも大きい。

おぼこさを残す甘い顔立ちと、顔が小さく手足が長いバランスの取れた体型は、まるでアイドルを彷彿とさせる。優勝のよろこびや惜敗への悔しさなど、喜怒哀楽や心の葛藤を包み隠さず素直に表現するあの態度は、トップアスリートに特徴的な近寄り難さとはほど遠い親しみやすさを醸し出している。「くまのプーさん」を愛でる様からみて取れる庶民感覚と、「少女漫画の主人公」のようだとも形容される卓越性とのギャップは、老若男女の目を惹きつけてやまない。

試合後のインタビューでは、質問をはぐらかすことなく誰ひとり不快にさせないであろうほぼ完璧なコメントを残す。言い訳を口にせず、いまの自分がいるのは周囲からサポートを受けたお陰だと感謝の気持ちを忘れない。メディアやファンが期待する言葉を的確に紡ぐその言語能力もまた優れており、その言動を好意的に解釈し、分析する書き手も後を絶たない。

ジャーナリストのインタビュー
写真=iStock.com/SeventyFour
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世界屈指の実力がありながら、その容姿やリンク外での振る舞いまでも卓越している羽生選手は、まさに非の打ちどころがない。

だが少々ひねくれた私には、この非の打ちどころのなさが気にかかる。

画面上のアスリートは架空の選手像にすぎない

画面に映るトップアスリートは、ファンをはじめとする大半の人にとっては想像上のイメージである。試合での様子やメディアから伝わる断片的な情報を組み合わせて、観る者それぞれが創り上げる架空の選手像にすぎない。

幼いころからスケートに取り組み、長らく周囲の期待に応え続けてきた羽生選手は、このイメージを保つべく努力を続けてきた。求められる答えを察して理路整然と語るインタビューでの質疑応答は見事というほかなく、そうして好青年を演じ続けるなかで、この非の打ちどころのない「羽生結弦像」は創られていった。

そして、ほとんど誰もが好意的に受け取るこの「羽生結弦像」に商品価値を見出した人たちが、それにあやかろうと躍起になっている。勝とうが負けようが、世間の耳目を集めるためにその一挙手一投足にスポットライトを浴びせたこのたびの記者会見は、この構図を鮮やかに表象した。

揺るがぬ人気を確立した「羽生結弦像」は、すでにひとり歩きしているように私には思える。自らを取り巻くこの状況を羽生選手自身はどのように感じているのか。もしかすると得体の知れない不安を感じているのではないか。「羽生結弦像」を演じるなかで、本来の自分を見失いつつあるのではないか。

いつも礼儀正しく謙虚な「羽生結弦像」を維持するために、羽生選手は「背伸び」をしている。そう思えてならない。

羽生選手が健気に応えようとしている「周囲からの期待」は、ファンなど好意的な人たちからの直接的なそれだけではない。「羽生結弦像」から利を得る人たちの打算的な「無言の圧力」もまたのしかかっている。周囲からの期待に長きにわたって添い続ければ、たいていの人は茫然自失する。あの非の打ちどころのなさが、打算的な圧力を含むすべての人が納得する解を示し続けていることでもたらされているのだとすれば、それは自らを押し殺した「背伸び」でしかない。