それは「保身」ではないか?

叱るには気力も体力もいる。叱って楽しい気持ちになることもない。それでもあえて叱るのは、相手に成長してほしいからだ。期待しているからなのである。

もっとできるはずなのに、本人の努力不足や取り組み方の甘さなどによってそのレベルまで達していないと感じられるから叱る。期待していないのなら、愛情がないのなら、誰が好き好んでわざわざ叱るものか。

だが、「叱る」と「怒る」をはき違えている指導者がいかに多いことか。愛情から叱っているのか、それとも自身の保身やいっときの感情の高ぶりで怒っているのか、相手は即座に見抜く。「怒られた」と感じれば反発したり、聞き流したりするのは当然だ。

本人が「自分のために叱ってくれているのだ」と受け止め、そのうえで「もっとよくなって期待に応えよう」という気持ちを喚起させなければ、叱ったことにはならない。これは絶対に忘れてはいけない。

「ぼやき」は期待の裏返し

監督だったとき、私は盛大にぼやいたものだ。野村=ぼやきといわれるほどだった。だから私の場合、叱る、ほめるだけでなく、もうひとつ「ぼやく」があった。

取材
写真=iStock.com/Mihajlo Maricic
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とくに東北楽天ゴールデンイーグルス監督時代は、私のぼやきが毎日メディアで取り上げられ(スポーツ新聞にコーナーもできたほどだ)、結果的にチームに注目を集めさせることにもなった。

私がぼやいたのは、ファンサービスや話題づくりという狙いもあった。だが、最大の目的は選手を発奮させることだった。

私のぼやきはメディアを通して選手にも伝わる。それを聞いた選手は、どうしてぼやかれたのか、何が悪かったのかと自問自答する。そして何をしなければいけないのか考え、改善しようとする。それを期待したのである。