「社会に規範を示す」責任と切り離されたエリート

そもそも、「社会に規範を示す」責任を果たす際には、誰もが難儀な日常を引き受けることを求められる。そうした難儀な日常が世からの敬意や「名誉」によって遇され報いられなければ、そうした責任をあえて果たそうとする人々は、決して多くないであろう。

結果として、現今の日本における「エリート」とは、「社会に規範を示す」責任とは切り離され、専ら「能力や才能に秀でた人々」を指すものになっている。人々が「秀でた能力や才能」を自分の便益や声望の実現だけに使おうとするならば、それは、もはや「エリート」ではなく「セレブ」の振る舞いになる。筆者が指摘した「『セレブ』の跋扈と『エリート』の消滅」の風景とは、そうした戦後七十余年の足跡の果てにあるものだといってよい。

「小室問題」が投げかける問い

故に、小室夫妻の一件を機に、皇室制度の有り様についての議論が世の関心を集めたけれども、そうした議論は、皇室制度の現状だけを題材にしても大した意味のないものなのではないか。前に触れた「名誉の階梯」を機能させるべく再構築して、皇族の方々の「社会に規範を示す」活動を補完し責任を分担する人々を登場させ、社会の中で適宜、位置付けない限り、皇族の方々に過重な負担がかかる現状は、変わらないからである。

特に小室家に降嫁した秋篠宮家の内親王が、皇族という「エリート」の頂点に位置する立場に伴う責任と諸々の制約を厭い、そうした責任や負担とは無縁の「自由」を渇望したところで、そのこと自体は大した批判の対象にはなるまい。それは、「エリート」すなわち「社会に規範を示す人々」を退場させた戦後日本の縮図なのである。今後、皇位継承の有り様を含めた皇室制度の議論に際しては、このことは適切に留意されるべきものであろう。