華族制度/勲章制度が担っていたもの

戦前までの日本では、「誰が社会に規範を示す人々であるか」を世に伝える社会制度上の枠組は、華族制度から諸々の勲章制度、さらには宮内省御用達制度に至るまで、多彩に整えられていた。こうした枠組は、社会に対する「貢献」を積み重ねれば、それに応じた「名誉」が順次、与えられるという趣旨で、「名誉の階梯」としての体裁を伴っていたのである。

メダル
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たとえば小村寿太郎は、日向飫肥藩士出身のテクノクラート(技術官僚)として、日英同盟樹立や日露戦争時のポーツマス条約締結といった局面で明治外交を牽引した功績によって、男爵から順次、昇爵して侯爵に至っている。また、渋沢栄一も、三菱・岩崎、三井、住友といった財閥家の当主が高々、男爵にとどまっていたのとは対照的に、その公益に対する姿勢によって財界からは異例の子爵の地位に列せられている。小村や渋沢の足跡は、往時の「名誉の階梯」の意味を物語る。

「時代錯誤の代物」なのか?

しかるに、戦後、こうした枠組は大方、「帝国の遺制」として一掃された。民主主義の趣旨が平等化、平準化、凡庸化にあるという誤解が定着していく中では、このように人々を序列付ける制度上の枠組を構築し直そうという試みは、民主主義の趣旨には相容れぬ時代錯誤の代物として受けとめられるようになった。

昭和三十年代後半に生存者対象のものが復活した現行勲章制度は実質上、現役を退き七十歳前後に達した人々に対して、一生に一度だけ叙勲するものになっている。故に、それは、「人々の一生をランク付けしている」という世評を招くことはあっても、前に述べた「社会に対する『貢献』を積み重ねれば、それに応じた『名誉』が順次、与えられる」という「名誉の階梯」の枠組としては全く機能していない。

日本国家による栄典の枠組として勲章制度に並ぶものと位置付けられている褒章制度にしても、その対象となる分野や人々の年齢は勲章制度よりも広いとはいえ、「特定分野の発展」に寄与した人々を称えるという制度の趣旨は、「社会に規範を示す」人々の顕彰という目的には決して重ならない。