悪条件だったからこそ生まれた多くの技術

——社長に就任したのはいつ頃でしたか。

【北川】アメリカで同時多発テロがあった2001年でした。いわゆる9.11の際には、ドイツで工作機械の展示会などがあり見学に行っていました。当時の日本は金融危機の後で、右肩上がりが終わった、といった気分が支配的でしたね。

しかし中国の鋳物工場の見学に行ったりしましたが、裸で作業していたり、工場の外にまで機械を置いて働くといった、日本の50年前、60年前の意欲的で前を向いている働き方を見ている内に、まだ中国は成長軌道に乗り切ってはいないが、世界は成長するという感触をもち、社内的に「Decade Plan 2011」を立ち上げ、自分たちの将来を考えました。プランの基本は、グローバル企業、ナンバーワン企業としての目標、といったものでした。

なお、バブルの崩壊や金融危機、その後のリーマンショックといった大きな波のなかでも会社の継続が可能だったのは、さまざまな製品群が顧客の方々に受け入れられたからにほかなりませんが、そうした製品群の一つに一般社会でも目立つ、いま申し上げたビル建設のタワークレーンがあります。

タワークレーンは元々、本州と四国に三つの連絡橋を架ける仕事を受注し、島から島へと、足場のない場所で橋を架けるために建設業者と相談しながら考案していったクレーンの数々が、もとにありました。

御承知のように、本四架橋(本州四国架橋)は1978年に児島・坂出ルートから着工して以来、1999年に尾道・今治ルートが完成するまでの20年に及ぶ仕事でした。強い風雨、弱い足場、飛び飛びの島、といった悪条件の中の工事でしたが、その困難が、架橋工事に取り組む多くの建設業者と協力して、たくさんの技術を生むという結果をもたらしました。

タワークレーンで乗り越えたリーマンショック

海中での基礎工事。島から島の距離の長い地形。それぞれが重く・長い鉄骨の運搬や取り付け、といった無数の課題がありました。それらに取り組むことで、クレーンに関する多くの技術を蓄積して、1990年にはクレーンの専用工場を設置しました。

本州と四国の架橋工事がおわるのとほとんど時を同じくして、都市でのマンション工事、巨大ビルの新築工事のラッシュが始まりました。

開発コストなどのために、90年代後半のクレーン製造の利益はまだわずかでしたが、00年代の後半には利益を生んでおり、2009年のリーマンショックもタワークレーンなど建設機械が生み出す利益でしのげたと言えます。