意味を考えないまま、手段が目的化している

調整文化の組織では、それぞれが「自分の持ち場で適切に業務執行する責任を持つのが仕事」という認識に立脚しています。この場合、目の前にある「やるべきこと」が仕事ですから、わざわざその仕事の意味や目的を考えたり、全体と自分のやっている仕事との関連性を見たりする必要性はありません。もともと傾向として、「どうやるか」という思考が強い人間が多数を占める日本の組織では、こうした思考姿勢によって、本来は手段であるはずのものがいつの間にか目的化してしまう、という本末転倒な状況が日常的に見られるのです。

たとえば、伝統的な日本企業における人事や総務の役割は、組織の安定を守ることです。

この場合、組織に安定をもたらすことは、本来、組織がその目的を達成するための手段であるはずです。安定自体が目的ではありません。つまり、組織がその目的である○○を達成するためには、組織の安定が必要ではあるけれど、本来の目的である○○を達成するためには、時には手段である安定には目をつぶり、少々の混乱をもたらすようなことがあってもおかしくはないはずです。

企業改革も「延命治療」にすぎない

しかし、多くの場合、安定自体がいつの間にか目的になり、さらにはそこに価値を置くことにもなっていく。特に平成の時代以降は、そんな安定の品質過剰が起こっているケースが目立ちます。

本社スタッフの行なう「調整」も同じです。事実・実態に即し、問題解決に向かうために調整をするのではなく、目の前にある安定のため、予定調和的に収めることを最優先するために調整している。しかし、その意味はまるで自覚されていません。だから、一時しのぎでしかなくても、とりあえず問題を抑え込んで「なかったことにする」という問題を生む調整を続けている。「目的は何か」などとは考えず、調整自体を目的にしているのが調整文化なのです。

調整文化の中で行なわれる改革の代名詞は「延命治療」です。目先の混乱を避けるために安定を優先する考え方が調整文化ですから、何がなんでも延命治療に全力を尽くすのは当然の帰結といえます。

かつてのように景気が循環し、経済の低迷が続いたのちに神風が吹いては業績が回復していた時代ならば、よけいなことをしないで守りの経営に徹し、景気の浮揚を待つことも得策でした。あるいは、縮小均衡的な合理化によって身を削ることで、なんとか目先の危機的状況を切り抜けることもできました。