かつては雅だった二丁目で変わらないもの

同時に、客の楽しみ方、店側の接し方も変わった。

「二丁目の店はかつては雅だったんだ。お客はただセックスをするだけじゃなかったから。ゲイバーでは会話のキャッチボールを楽しんで、それでお代を払って。でも、いまはただ(セックスを)やるか、やらないか。ヌくか、ヌかないか。ただそれだけだからね。店サイドの商売が下手になったと思うよ」

かつては雅の街だった──。りっちゃんの言葉は印象的だった。

「遊びに《雅》という言葉が正しいのかどうかはわからないけど、包み隠すというか、なんでもオープンにしない楽しさもあるでしょう? そういうものがなくなった。若いコたちは顔がいらないの、ただチンチンさえあればいい。それじゃあ、ちょっと味気ないというか、つまらないでしょ」

では、「クイン」はなにが変わったのか? あるいは、なにが変わらなかったのか? りっちゃんは少しだけ考えてから口を開いた。

「いろいろ変わったとはいえ、それでも新宿二丁目はいまでもゲイの街だし、こうして毎日仕事を終えたこの街の人たちがクインに食べに来てくれるのは、この50年間、なにも変わっていないよね……」

変わったものと、変わらないもの──。50年も経てば、それはどんな街にもある。新宿二丁目もまた例外ではない。それでも「クイン」は今日も営業を続けている。それは紛れもない事実なのだ。

「人間が這いずり回って生きている街だから」

長きにわたったインタビューにおいて、りっちゃんがこんな言葉を口にした。

「この街は悪のたまり場。人間が這いずり回って生きている街だから……」

それまでずっとテンション高く、威勢のいい発言ばかりが続いていただけに、「人間が這いずり回って生きている街」という言葉は強く胸に刺さった。

その理由を問う。

「こういう言い方をすると自分がイヤになるけど、ずっとこの街で働いて、ずっとこの街で暮らしているとつくづく実感しますよ、私たちは底辺なんだって。だって、この街はガス抜きの場所なんだから……」

——どうして、自分のことを「底辺だ」と思うのですか?

りっちゃんの口調が強くなる。

「オレたちは神輿で言うと担ぎ手だから。決して神輿の上に乗ることはできないんだから。神輿に担がれている人たちが政治をやり、経済をやり、世の中のために頑張っているんだから。オレたちはそいつらの心を潤すための潤滑油でしかないんだから。もちろん、オレにも心の憂さはあるし、その憂さを吐き出す場所はあるよ。誰もが、自分なりの心の憂さを吐き捨てる場所があるんだからな。憂さを捨てる人もいれば、捨ててもらうために頑張る人もいる。そして、その人もまたどこかで憂さを捨てにいく。くるくる回る糸車……」