本当のトップランナーが「世界一決定戦」に参戦しない理由

ドーハ世界陸上の男子マラソンには世界のビッグ2というべきランナーが出場していない。5000mと1万mで世界記録を保持するケネニサ・ベケレ(エチオピア)とマラソン世界記録保持者であるエリウド・キプチョゲ(ケニア)だ。

ベケレは9月29日のベルリンマラソンで世界記録に2秒差と迫る2時間1分41秒で優勝。キプチョゲは10月12日にウィーンで行われた「INEOS 1.59 Challenge」というイベントで42.195kmを1時間59分40秒で走破。非公認ながら人類で初めて“2時間の壁”を突破した。

写真=EPA/時事通信フォト
10月12日にウィーンで行われた「INEOS 1.59 Challenge」で「2時間の壁」を突破したケニアのエリウド・キプチョゲ選手。

9月13日のシカゴマラソンではブリジット・コスゲイ(ケニア)が2時間14分4秒で連覇を達成。ポーラ・ラドクリフ(英国)が16年以上も保持していた女子の世界記録(2時間15分25秒)を一気に1分21秒も更新した。

世界のトップ・オブ・トップに君臨する彼らがドーハ世界選手権を回避して、別のレースを走ったのは明確な理由がある。それは「マネー」だ。

ドーハ世界陸上の場合、金メダルで6万ドル(約648万円)、銀で3万ドル(約324万円)、銅で2万ドル(約216万円)の賞金が贈られ、世界新記録を樹立した選手には10万ドル(約1080万円)が支給される。気象条件とペースメーカーがいないことを考えると世界新記録のボーナスを手にする可能性はゼロで、出場料もない。

これが東京、ボストン、ロンドン、ベルリン、シカゴ、ニューヨークシティというメジャーレースになると、世界陸上をはるかにしのぐ金額が動く。たとえば、東京マラソンは、1位が1100万円、2位が400万円、3位が200万。加えて世界記録には3000万円というボーナスがある(金額はいずれも19年大会)。さらに目玉選手には数百万円の出場料が支払われている。

収入を考えると、どちらに出るべきなのかは明らかだ。プロランナーである彼らは、レース後のダメージも計算しており、賞金のわりに負担がかかる夏マラソンを走る考えは持っていない。そのため2年に一度の世界選手権は近年、真の実力者から敬遠されている。

「サブ2」切りレースは非公認だが心底ワクワクした

ドーハに滞在中だったこともあり、日程が重なったベルリンマラソンは見ていないが、前述のフルマラソン2時間切りへの挑戦「INEOS 1.59 Challenge」はネット上でチェックした。正直言って、ドーハ世界陸上のマラソンよりもワクワクした。

中継が始まる20分前からスタンバイしていたが、その時点で1万人以上の視聴者がいた。そこからオーディエンスは徐々に増加。キプチョゲがスタートしたときには20万人以上が視聴していた。

このイベントにはリオ五輪1500m金メダリストのマシュー・セントロウィッツ(米国)、同5000m銀メダリストのポール・チェリモ(ケニア)ら世界トップクラスのランナー41人がペースメーカーとしてアシスト。日本人では1万mの日本記録保持者・村山紘太(旭化成)が参加した。

フェニックスフォーメーションと呼ばれる先頭から順に「2-1-2-2」で形成された7人のペースメーカーが主役のキプチョゲを取り囲む。彼らは設定ペースで進むだけでなく、向かい風をガードする役割も担っていた。先導車は緑のレーザーを道路上に当てて走り、ペースメーカーは交代しながら、1km2分50秒前後のペースを刻み続けた。

非公認レースで、ライバルはいない。ペースメーカーが交代する以外は、レースに動きもない。それでもキプチョゲの孤独な戦いは、観るものを魅了した。それは「記録」という人類の可能性を誰もが知りたいと思っているからだろう。キプチョゲがラストスパートをした時、視聴者は80万人近くに膨れ上がっていた。

このイベントにはイギリスの石油化学企業イネオス社が1500万ユーロ(約18億円)をつぎ込んだという。「サブ2」というミッションを達成したキプチョゲにはメジャーレースで世界記録を樹立した以上のマネーが支払われたことだろう。