出動部隊による虐殺

対ソ戦においては、出動部隊の編制はさらに大規模になり、AからDまでの4隊がつくられ、北方、中央、南方の各軍集団、また、クリミア半島の征服にあたる第11軍に配属された。各出動部隊には、軍隊でいう一個大隊ほど、およそ600ないし900名弱の人員が配属され、特別分遣隊、もしくは出動分遣隊に区分された。武装親衛隊、警察などの隊員を中心とする彼らは、文字通り機動的に出動し、占領地でユダヤ人などの虐殺を実行したのである。

戦後、国防軍の軍司令官たちは、出動部隊の殺戮さつりくは、軍の管轄外の後方地域で行われたことで、自分たちには責任がないと主張した。しかし、今日では、1941年3月の「ユダヤ・ボリシェヴィキ知識人」を殺害すべしとのヒトラー命令に、国防軍最高司令部(OKW)も同調していたことがわかっている。同年3月13日、OKWは、「陸軍の作戦領域では、総統の委任にもとづき、親衛隊全国指導者〔ヒムラー〕が政務行政準備の特別任務を帯びる」ことを承認していたのだ。その結果、ヒムラーの指揮下にあるハイドリヒが出動部隊に指示を下すが、それらへの補給は国防軍が行うと定められる。親衛隊と出動部隊は、ポーランド侵攻のとき以上に、自由な行動が取れるようになった。

犠牲者の総数が多すぎてわからない

出動部隊と国防軍の協同は、通常、つぎの手順を踏んだという。大量殺戮の前に、出動部隊長、または、その隷下れいかにある特別分遣隊か、出動分遣隊の指揮官が、対象となる集落や地域を管轄する国防軍部隊、もしくは業務所に連絡を取り、行動計画を通告する。必要とあらば、当該地の封鎖や殺害対象者輸送用のトラックの提供など、国防軍が支援を与えた。通訳の助けを借り、多くは地元住民から得た情報によって、ユダヤ人が特定され、集められる。そこから、射殺地に運ばれるか、追い立てられるのだ。また、射殺される前には、ユダヤ人は貴重品と着用している衣服を提出させられた。

こうしたやり方で、出動部隊はソ連各地で虐殺を重ねていった。2日間で、女性や子供を含むユダヤ人3万3771名の生命を奪った、キエフ近郊バビ・ヤールの殺戮(1941年9月)、1942初頭のハリコフにおける1万人の射殺……。出動部隊の手にかかった人々の数は、少なくとも90万人と推計されている。ただし、正確な犠牲者の総数は、その膨大さゆえに、今日なお確定されていない。