1941年から45年まで続いた「独ソ戦」では、多数の市民が犠牲となった。特に悲惨だったのはレニングラード(現在のサンクトペテルブルク)の包囲戦だ。300万人が取り残された結果、人肉食が横行するほどの飢餓で100万人以上が犠牲となった。多数の世界遺産をもつ美しい街で、なぜこのような悲劇が起きたのか——。

※本稿は、大木毅『独ソ戦 絶滅戦争の惨禍』(岩波新書)の一部を再編集したものです。

レニングラードの通りを行く市民
写真=SPUTNIK/時事通信フォト
1942年4月1日、ナチス・ドイツ軍に包囲されたレニングラードの通りを行く市民(ソ連・レニングラード)

「敵の絶滅」を目指す戦争を支えた世界観

語弊があるかもしれないが、独ソ戦におけるナチス・ドイツの収奪政策は、他国民を餓えさせてまでも自国民の支持を確保・維持するという点で、まだしも「合理性」の枠内にあった。しかし、以下に述べる絶滅政策は、戦時下において、貴重なリソースを投入しながら、無意味と思われる虐殺を繰り返すものであった。したがって、一見、「合理性」、とりわけ「軍事的合理性」を逸脱した狂気の行為であるとみえるかもしれない。

けれども、ヒトラーとナチス・ドイツの指導部にとって、対ソ戦が「世界観戦争」であり、軍事的な勝利のみならず、彼らが敵とみなした者の絶滅を追求する戦争だったという補助線を引けば、まだしも、その論理を知ることができるだろう。しかも、この「絶滅戦争」を支えるイデオロギーは、ヒトラーの脳髄のなかに存在していたのみならず、ドイツ国民統合の原則として現実を規定するようになったことにより、独自のダイナミズムを得ていたのである。

その指標ともいうべき存在が「出動部隊(アインザッツグルッペ)」であった。出動部隊とは、国家公安本部長官ラインハルト・ハイドリヒ親衛隊中将直属の特殊機動隊で、敵地に侵攻する国防軍に後続、ナチ体制にとって危険と思われる分子を殺害排除することを任務としていた。すでにポーランド戦役においても編成されたことがあり、教師、聖職者、貴族、将校、ユダヤ人など、ドイツの占領支配の障害となるであろう人々を殺戮さつりくしている。