剛腕とされる臼井正彦・前学長は静岡県下田市生まれ。都立明正高校から東京医大に進学し、1966年に眼科医となっている。その後、フランスパリ大学への留学などを除けば、一貫して東京医大病院に勤務している。その後は、1978年に眼科助教授、87年に教授、94年に主任教授、03年に病院長、08年に学長、13年に理事長就任と、出世の階段を駆け上っている。

彼の経歴をみていて、官僚機構との接点は少ない。私は官僚機構との接点が少ない人物は、官僚機構に過剰な期待を寄せる傾向があると感じている。

不祥事発覚の直後に、厚労省の元局長が理事長に天下り

2009年、東京医大で多くの不祥事が発覚した。2月には2005~07年にかけて医学博士の学位審査に関わった教授37人中35人が、審査を受ける医局員約220人から平均10万円程度の謝金を受け取っていたことがわかった。さらに指導した教授には20~30万円が支払われていた。当時、学長だった臼井氏も受け取っていた。

8月には、茨城医療センターで診療報酬約1億2000万円を不正に請求していたことが判明。12月には、八王子医療センターで2000~07年に生体肝移植を受けた52人中23人が1年以内に死亡していたこと、一連の生体肝移植を受ける患者から合計1200万円の寄附を受け取っていたことが明らかになった。

世論の批判を受け、2010年3月に執行部は辞任。臼井氏も学長の職を辞した。さらに、5月には郷原信郎弁護士を委員長とする第三者委員会を立ち上げる。

ここで東京医大が頼ったのは厚生労働省だった。7月1日付けで厚労省の元健康局長だった田中慶司氏を理事長に迎える。田中氏は東大医学部卒の医系技官OBだ。自ら依頼した第三者委員会の報告書ができる前に、処分を下す厚労省OBを理事長に迎える東京医大のやり方は露骨だ。一方、それをわかっていて理事長職を引き受ける厚労省OBの倫理観も常軌を逸している。

7月13日には第三者委員会の報告が公開され、特定の教授に権力が集中する講座制や、学内の対立構造が根本的な要因だったと結論した。第三者委員会は、組織を抜本的に改革するため、外部有識者による再生委員会(仮称)の設置を求めたが、その提言は骨抜きにされた。東京医大の抵抗ぶりを、郷原氏は筆者が編集長を務めるメルマガMRICで記している。ぜひご覧いただきたい。