希望の党に対する逆風も止まなかった

【塩田】前原さんと小池さんは「保守2大政党論者」で、日本の政治は保守2大政党による政権交代可能な政党政治で、という考えのようです。

【馬淵】日本は、中央集権的な国家像の自民党と、地方分権や地域活性化などを求める勢力、つまり「組織」対「個」、「中央」対「地方」、「生産者」対「消費者」という二つの潮流が長く存在する枠組みが続いた。保守とは「変わらないこと」、すなわち「無窮の連続性」を意味しますから、これら二つの政治勢力は、いずれも保守なのです。この二つの政治勢力が併存し続けるという考え方が保守そのものです。

ですが、実は世界はそうではない。中央集権型の国家体制の下で、片方が片方を征服し、隷属させ、完全に殲滅していった。前の政権をすべて殲滅して歴史を書き換える。

でも、日本はそうではない。大和朝廷を祖とする中央集権国家体制は、高天原の神である天照大神を祖とする天神の世界です。一方、日本の原型である葦原の中つ国には八百万の神々がいました。これらの神々が地祇と呼ばれる神であり、地祇はやがて豪族になり、武家社会を築き上げていきます。これが出雲の大国主命を祖とする地祇の世界です。天神と地祇の二つの神々を祖とする政治勢力が併存し続けてきました。そこで起きたのは、国盗りでなく、国譲りです。日本の政権交代は国譲りで、争いなしで国を譲る。武家社会となっても、徳川時代の終わりに、また大政奉還で譲る。二つの政体を殲滅することもなく、どちらも途絶えずに現存する社会。これが日本なのです。

この潮流でいえば、自民党は中央集権体制を強化する。旧民主党の結党の理念は地域の活性化です。私の感覚でいうと、「2大保守」というよりも、もともと保守とは二つの政治潮流を認め合う思想です。だから、自分は民主党側の立場の人間として、この政治潮流の中でもう一度、地域の活性化、地方分権に立った政策を出していかなければならない。それが新党の核になっていかなければ、と思っています。

【塩田】昨秋、旧民進党が希望の党への合流を決めたとき、枝野さんは。

【馬淵】排除リストなるものがマスコミに出回ったとき、枝野さんの周辺が、「もう一度、両院議員総会を招集して『否決しよう』と言っていた」と聞いています。ですが、衆議院が解散となり、みんな地元に帰っていて、東京に戻ってくるわけがない。だから、結局、「排除される」とされた側の人たちが背中を押して立憲民主党の結党に持っていったというのが実態だったと思います。

【塩田】昨年10月の総選挙で与党が大勝しました。野党敗北の要因は。

【馬淵】単純に割れたからですよ。全国の比例区の総得票で、自民党の1860万票に対して、希望の党と立憲民主党は合わせて2100万票も集めている。ばらばらにしたのは自分たちですから、責任がある。もう一度、一つにまとめるという責任を果たさなければならない。

【塩田】ご自身が落選した原因をどう受け止めていますか。

【馬淵】ああいう流れの中で、私は希望の党の公認をそのまま受けました。有権者の中には、希望の党、立憲民主党、無所属の三つの選択肢があって、その中から希望の党を選んで移ったと捉えた方も多くいて、「なぜ希望の党に移ったのか」とよく言われました。しかし、本当はそうではない。「希望の党に行くというのが党全体の合意だったのです、みんなで決めたことなんです」という説明をどこに行ってもまず初めにしなければならない選挙だったから、きつかった。

もう一つ、昨年の総選挙は定数削減による区割り変更で奈良県の小選挙区が4選挙区が3選挙区となりました。かつての奈良1区に旧2区の生駒市が新たに編入されました。生駒市を除く旧奈良1区では私は勝っていますが、新しく入ってきた生駒市が手付かずで、ここで負けました。全体で2476票差でしたが、生駒市では3462票の差だった。旧奈良2区は2012年の総選挙の後、旧民主党は候補者もいなくて、自民党の高市早苗さん(元総務相)が圧倒的強さを誇ってきた。旧民主党は県議も市議もいなくなっていた。生駒市が1区に入って、旧民主党の看板も含めインフラはほぼゼロに等しかった。隣の選挙区だったので、生駒の方々とは直接ほとんどお会いしていない。10万人の有権者の生駒市で三千数百差というのは、よく取れたほうだと思いますが、勝てなかった。

希望の党に対する逆風も止まなかった。私は変わらない自分のメッセージを出し続けましたが、それが浸透し切らなかったのは、有権者の目に希望の党は要らないと映ったことも一つの原因ではあると思います。それぐらい嫌がられていた。ただし、最終的には、それを跳ね返すだけの地力を持てていなかった自分の責任に帰結すると思っています。

馬淵澄夫(まぶち・すみお)
前衆議院議員・一丸の会代表
1960(昭和35)年8月、奈良市生まれ(57歳)。東京都立上野高校、横浜国立大学工学部土木工学科を卒業。三井建設に入社した後、2部上場のコンピューター関連企業ゼネラル株式会社で取締役、北米法人最高経営責任者などを務める。2000年の総選挙に民主党公認で奈良1区から出馬したが、落選する。03年の総選挙で再挑戦し、43歳で初当選(以後、小選挙区で5期連続当選)。民主党政権時代、鳩山由紀夫、菅直人の両内閣で国土交通副大臣、菅内閣で国交相兼内閣府特命担当相、首相補佐官を歴任した。11年と12年の民主党代表選に出馬したが、いずれも敗退した。民主党の幹事長代理の後、野党転落後に選挙対策委員長となり、15年12月から民進党筆頭特命副幹事長の座にあった。17年10月の総選挙で落選。