心を鍛えることは、考える力を手に入れること

人によっては、痛めつけられることでめげない心が鍛えられることはあり得る。例えば肉体を鍛えるときは、筋肉の質量を上げていくわけだが、心を鍛えるのも同じ作業。シゴかれることで鍛えられる、というのは事実なのだろう。

「あんなひどいシゴキを受けてもやってきた俺たちが、ここで負けるはずはない」

そう確信し、心を奮い立たせる。惰性で練習をしてきただけの選手たちと対戦したとき、力の差を見せつけられることもあるだろう。

ただし断言するが、それは歪(いびつ)な鍛え方である。

不必要な負荷がかけられている状態で、“質のいい心の筋肉”にはなっていない。“やらされている”という感覚では、肝心なとき、肉体は思うように動かなくなってしまう。心もまったく同じだ。

心を鍛えることは、考える力を手に入れることとほぼ同義なのである。

日本と欧州「分かったか?」に対する返事の違い

「自分で考える」

そうすることで、自分に足りないものに向き合い、同時に心も鍛えられる。強い敵と対戦するたび、足りないものを考える。もっと言えば、勝つために逆算して練習に励むようになるのだ。

イビチャ・オシム監督が提唱したことで、「考えるサッカー」が一大ブームになった。それは、まさに理想的な状態だろう。ヨーロッパの選手たちは、子どもの頃からそういう習慣が身についている。

しかし、考える、ということについて、欧州と日本で捉え方はいささか異なる。

例えば、スペインでは指導者がレクチャーで子どもたちに「分かったか?」と聞くと、「分からない。どういうこと?」という質問タイムになる。自分たちが論理的に納得するまで、問いかけをやめない。しつこいほどで、隣で聞いているこちらがうんざりするほどだ。しかし、議論を活発にすることによって、本当に理解した子どもたちは、いざ実践してみると、意をくんだ動きができる。

一方、日本では子どもたちに説明をした後に、指導者が「分かったか?」と水を向けると、十中八九、「はい」という答えが返ってくる。ほとんど手間がかからない。しかし、実践すると動きはばらばら。まったく意図が通じていなかったことが分かる。そこから十分に説明をすることになる。彼らの「はい」は単なる返事であって、「理解した」というわけではない。

誤解を恐れずに言えば、日本人には「自ら考える」という習慣が身についていない部分がある。著しく従順なのだ。欧州や南米の指導者は、日本人について「指示に従いすぎる」という矛盾した感想を漏らすことがある。