理性と直観のどちらが主か
理性と直観の関係について、相反する見方を示した2人の哲学者がいる。
古代ギリシアの哲学者プラトンは、理性と直観(感情)の関係を、御者と馬との関係にたとえて説明した。つまり、理性が主人となって、直観や感情をコントロールすべきだということだ。
それに対して、18世紀に活躍したスコットランドの哲学者デイヴィッド・ヒュームは、『人間本性論』のなかで、「理性は情念の奴隷であり、そうあるべきだ」と述べている。
古代ギリシアから始まった西洋哲学の歴史を振り返ると、ヒュームのような考え方は少数派だった。そりゃそうだろう。衝動的な直観や感情に振り回されていたら、真理の探求なんてできやしない。直観は真理を探求する目を曇らせる。さまざまな偏見やバイアスから抜け出すには理性を適切に使わなければならない──というのが、西洋哲学において支配的な考え方だった。
「理性は情熱の召使いにすぎない」
しかし、この連載でも繰り返し述べてきたように、近年、理性の旗色は悪くなっている。たとえば、アメリカの社会心理学者、ジョナサン・ハイトは、著書『社会はなぜ左と右にわかれるのか』(紀伊國屋書店)のなかで、西洋哲学の理性崇拝を「合理主義者の妄想」と呼び、ヒュームに軍配を上げている。
<純粋なカルト信者は、現実離れした神聖なファンタジーを生むが、やがて外部から誰かがやってきて、偶像を台座から叩き落とす。まさにそれが、「理性は情熱の召使いにすぎない」という、当時の哲学を冒瀆(ぼうとく)する叫びを高らかにあげたヒュームのしたことだ>
ハイトは、ヒュームのモデルを継承して、理性と直観の関係を<象>と<乗り手>にたとえている。なぜ馬ではなく象なのか。「象のほうが馬よりもはるかに大きく、かつ賢いから」だ。<乗り手>は、<象>を思いどおりに操ることなどできない。むしろ逆に、人間は直観的な判断を後から理由づけるために、理性的な思考を使う。理性が直観を統御するのではなく、直観を意味づけるために理性が用いられる。「そもそも<乗り手>は<象>に仕えるために配置されている」というわけだ。