「ちゃんと」「きちんと」家事をしなければ、子供は「ちゃんと」育たない。この刷り込みはどこからきたのか。翻訳家の佐光紀子氏は「昭和30年代から、政府が食や家事の外注化を『家庭機能の低下』といってきたからだ」と指摘する。なぜいまだに「家事なんて適当にやればいい」と言えないのか――。(第2回、全3回)

※本稿は、佐光紀子『「家事のしすぎ」が日本を滅ぼす』(光文社新書)の第1部「完璧家事亡国論」を再編集したものです。

日本人は家事を外注したいとは言わない

修士論文で、「なぜ女性が家事を担うのか」を、何組かのご夫婦に別々に話を聞きながら探ろうとして、最初に行き当たったのは、誰もが「ちゃんと」した食事を「家で」作ることや、自分たちで家事を「きちんと」することは大事だという価値観を共有しているということだった。裏を返すと、「家事なんて適当にやればいいし、誰かがやってくれるならぜひお願いしたい」などという答えに出あうことは、ついぞなかった。

家事分担についてのアメリカの論文でよくお目にかかるのが「バーゲニング理論」(※1)だ。家事分担について調べたいと言うと、教授にまずはこれを読めと言われる。

佐光紀子『「家事のしすぎ」が日本を滅ぼす』(光文社新書)

バーゲニング理論は、「家事はできればやりたくないものだが、家庭生活を維持するためにある程度はやらざるを得ない。その配分は、家庭に提供する資源の割合に準じることが多い」というのが基本的な考え方だ。「自分がやりたくなければ、持てる資源を活用して外注化を図る。洗濯がいやならクリーニング屋さんに持ち込み、洗ってたたむところまでやってもらう。お金がなければ、外注はできない。手持ちの資金をベースにすることで、家庭内で担当する家事の量が決まっていく」という理論だ。

しかし、日本人にインタビューをしてみると、誰も家事を外注したいとは言わない。それどころか、「多分そこまではしない」(40代男性)と、家事の外注化はかなり特別なことだという答えさえ返ってくる。アメリカでの前提となる「家事はなるべくやりたくないもので、できれば外注してしまいたいもの」という前提そのものが欠落している。

手抜き家事でも「きちんと」拭き取る

この、「ちゃんと」「きちんと」「自分で」家事をすることへの評価は意外に高く、「家事ができないというのは、生きていく上で致命的な欠陥なわけですよ」(50代男性)、「家事をすべて済ませて家をぴしっときれいにできている状態、家を守る状態(が心地よい)」(30代女性)という言葉に代表されるように、「家事は基本」(40代女性)的なもので、きちんとやるべきものだという認識が感じられる。

じつは、これは女性誌のライターさんたちにも感じられることで、「手抜き家事」の企画で掃除の方法のレシピを考えるときでも、「汚れを拭き取ります」と私が言うと、「汚れをきちんと拭き取る」という作業手順に翻訳されて記事ができあがってくることは多い。

「手抜き家事なんだから、この『きちんと』っていう言葉は取りませんか? とりあえず拭いてあればいいんじゃないかしら?」と声をあげても、採用されないこともある。「それだと、きれいにならないかもしれませんよね?」というわけだ。あくまでも、掃除はきちんとやることが、「手抜き企画」においてさえも優先されてしまうのが日本の家事なのだ。