『ふたりの女』は悲しみだけでなく戦争への強い怒りも

実は「泣く」といっても、感動の涙や心を打つ涙、すすり泣き、むせび泣き、号泣など、いろんな種類がある。

その中で僕が『ふたりの女』を観て流す涙は、「慟哭」だね。どうしてこんなに主人公がつらい目に遭うのかと思うと、怖くなって改めて観ることができないぐらい、重い映画です。

舞台は第二次世界大戦中のイタリアで、たくましく生きる未亡人と娘が田舎に疎開する。しかし戦況が変わってファシズムから解放された途端、進駐してきた北アフリカ植民地兵に母親役のソフィア・ローレンが暴行されるんだ。ラストもこの後どうなっていくのか想像できない終わり方ですが、ここまで残酷な結末を描かなくてもいいんじゃないかと個人的には思う。

なんせ監督が、ヴィットリオ・デ・シーカ。イタリア・ネオリアリズムの大巨匠ですよ。

彼は戦争によって愛する男女が引き裂かれ、運命にもてあそばれる『ひまわり』という映画を、同じソフィア・ローレン主演で撮っているけど、現実を直視する点では『ふたりの女』のほうが徹底しているよね。

でもこの映画で涙が流れるのは、ただ悲しいからじゃなくて、戦争に対する怒りもあるからだよ。「戦争下ではこれほどひどいことをやっていたのに、誰も救ってくれない」という事実を提示しながら、何が連合国の正義だ、何がヒューマニズムだ、という反戦のメッセージが伝わるんだ。

こういう優れた作品は、悲しみを受け止めて、次に自分は何ができるんだろうかと考えるべきです。長いスパンで見れば、作品の主張が未来へ受け継がれていくんですよ。

同じ戦争でも、作家・野坂昭如の小説をアニメ化した『火垂るの墓』は、慟哭とはまた違う印象だよね。

この映画は終戦間近の神戸で、両親を失った兄と妹が必死に生きていく話。ちょうどその頃、僕自身も東京大空襲を体験していた。東京の足立区へ疎開して、朝まで都心が夕焼けに染まるのを見てたな。防空壕に入ったまんま黒こげになった死体の話とか、いたるところで痛々しい話を聞いたものだよ。

その経験からすると『火垂るの墓』は、観る者の心をとことんえぐるような究極の描き方をしている作品ではないけどね。そこから一歩退いた視点で、悲しみを兄弟愛にくるませているから、ただの悲しさだけじゃないんだ。ある種の詩情が溢れてくるような感じで、感極まって何とも言えない気持ちになる。当然、同じ時代を過ごした俺のような人間にとっては「怒泣」、それ以外の世代にとっても胸に迫るものがあるんじゃないか。『禁じられた遊び』もすごいよ。

戦争で両親を失い、死んだ子犬を抱いたままさまよう少女が、一人の少年と出会い一緒に愛犬の墓をつくる。そのことをきっかけに墓づくりと十字架集めに夢中になっていく。そして、子供の無邪気で純粋な行動を「遊び」というタイトルにしている。監督の反戦思想が非情に表現されているね。

個人的に印象深いのは、終盤、主人公の少女ポーレットがミシェルという少年を探す場面。俺の記憶では名前を10回以上は呼んでるよ。でも10回呼ぼうが100回呼ぼうが、ミシェルは現れない。きっとポーレットは年寄りになるまで、自分の体験を語り伝えていくんだろうな。そういう子供が持つ純真さに、僕らは胸を打たれる。

これが『ライフ・イズ・ビューティフル』になると、また違う悲しさだよね。

戦時中、ユダヤ系イタリア人一家がナチの強制収容所に送られる。その父親が子供を怯えさせないため、「これは生き延びてポイントを稼げば戦車がもらえるゲームなんだ」と嘘をつく。強制収容所という究極の絶望状況に置かれても、人間はユーモアを持ってたくましく生きていこうとする姿がたまらないよ。

ユダヤ人にふりかかる悲劇を描いた映画としては、スピルバーグ監督の『シンドラーのリスト』もあるけど、俺は『ライフ・イズ・ビューティフル』のほうが好きだという人と友達になれそうな気がするな。『シンドラーのリスト』は監督の思いがあまりにも強く出すぎて、ちょっと引きめな印象を受ける。ユーモアがある分、『ライフ・イズ・ビューティフル』のほうがハートが泣いているって感じがするんだよね。