腰掛けのつもりが吉野家に人生を捧げる

安部の入社4年目の76年に50店、77年には100店、78年には200店と吉野家は店舗を広げていく。この時期、社長の松田は、「アメリカ200店舗構想」をぶち上げている。その“先兵”として幹部社員がアメリカ留学に送られた。その中の一人が安部だった。
79年夏、安部はイリノイ州カーボンデールの大学へ語学留学。1年間は大学で語学を学び、その後はアメリカの店舗を手伝うという予定だった。しかし、翌80年3月、安部は突然、日本に呼び戻される。吉野家が経営危機に陥っているというのだ。安部の帰国から3カ月後、吉野家は倒産。83年に会社更生法が適用され再建に向かって動き出す。
外食産業は20年で2兆円以上縮小

【弘兼】急成長していた吉野家が急に危なくなったのは記憶に残っています。当時は、牛丼という単品商売だったから失敗した。牛丼は古くさい、若者に敬遠されるようになったという論調でした。

【安部】それは的外れです。吉野家が経営危機に陥った原因は、3つあります。肉の品質低下、価格の値上げ、過剰出店による赤字店の増加です。店舗が増え、米国産の牛肉が不足し価格が高騰してしまった。そして値上げをして、一部にフリーズドライという研究中の、いわば乾燥冷凍加工肉を使うようになった。それで味が落ちて、それまでのお客様が離れてしまったのです。

【弘兼】吉野家のキャッチフレーズである、「うまい」「やすい」「はやい」のうち、先の2つが崩れてしまった。

【安部】簡単に言えばそういうことです。私が吉野家に入った最初の8年間は、イケイケの成長一辺倒、それから再建中の7年は超安全経営。その15年の間に、2つの相反する特異なDNAが私にも吉野家という会社にも宿ったと思います。

【弘兼】吉野家はセゾングループの支援を仰ぎ、87年春に債務を100%弁済。88年にレストラン西武傘下で、「株式会社吉野家ディー・アンド・シー」として再出発しました。安部さんは92年、42歳のときに代表取締役社長に就任。そこから22年社長を続けました。腰掛けのつもりが人生を吉野家に捧げることになってしまった。

【安部】(腕組みをして)人生を捧げるという意識は全くなかったです。私としては目の前の仕事、役割を全力で片付けていただけでした。

【弘兼】それは僕と同じ感覚かもしれませんね。目の前の締め切りをこなしているうちに、あっという間に画業40年が過ぎたという感じですから(笑)。