競合倒産を予見緻密な分析力

部下も、わが子も叱れない「情けないお父さん」が増え、子どものいたずらを注意されると相手をにらみつける「勘違いお母さん」だらけになった日本。「教える」ということが不在の社会のようだ。松下幸之助翁の語録に「教えずしては、何ものも生まれてはこない」とある。「教えるということは、後輩に対する先輩の人間としての大事なつとめである」とも続く。口を開けば「人材不足」を嘆き、「人材育成」を掲げる経営者は多いが、芦田流の確固たる信念にまで出会うことは、少ない。

いま、課長時代に叱られ続けた部下たちに芦田評を聞くと、「厳しかったが、嫌な上司ではなかった」と笑う。仕事が終われば、部下を連れて会社から近い新橋や赤坂の赤提灯やスナックへ繰り出す。みんなにワイワイガヤガヤやらせながら、何げなく意欲を引き出していく。ときに抜け出し、日本郵船の課長と「トリオ」などについて情報を交換した。そんなことも、部下に隠さない。

そのころ、米国の船会社が世界中の主要港を次々に巡る画期的な「世界一周航路」を始めた。公称4200トン。当時としては巨大船で、「パナマ運河を通れる最大の船型」が謳い文句だった。成功すれば、大きな脅威となる。世界中が注目した。

ここでも、「分析好き」が顔を出す。海外拠点に、その船の運航状況を観察させた。報告が届くと、「おい、来たぞ」と、うれしそうな声を部屋中に響かせた。敵の分析は、何も後ろめたい作業ではない。楽しんでやろう。そう、言いたかった。

よく調べると、「世界一周」のはずが、海が時化(しけ)ると、予定していた港に寄らず、次の寄港地で積み荷を下ろし、別の船で戻していた。船体の割に馬力が足りず、スピードが出ないから、先を急がざるを得ないのだ。積み替え・運び直しのコストは膨大、とみられた。「これは、脅威ではない。年間に200億ドルの赤字が出るだろう」――分析は当たり、その船会社は約1年後に倒産した。

1943年4月、島根県・大東町(だいとうちょう:現・雲南市)で生まれた。故郷は山に囲まれた盆地で、カール・ブッセの「山のあなたの空遠く、幸い住むと人の言う」のように、「あの山を越えて行くと、大きな夢がつかめる」といった雰囲気があった。自分にも、小さいときからそんな思いがあり、高校は電車で山を越え、松江へ通う。大学進学でも「もっと遠くの街へ行きたい」と思い、京都大学へ進んだ。就職先も「世界とつながっている会社へ行きたい」と、やはり「山のあなた」の思いで決めた。

67年に入社し、主として定期船部門を歩んだ。75年12月に米サンフランシスコへ赴任する。「分析力」は、シスコで開花した、とも言える。競争相手に、大胆な値引きをする会社があった。有価証券報告書の写しを入手すると、固定費の比率が高い。いろいろ分析し、「あんな値引きを続けたら、銀行の融資が切れると倒れる」と本社へ報告した。2年後、その船会社が潰れる。第二次石油危機が起き、強烈な金融引き締め策がとられたためだった。

部下たちを鍛えた背景には、若いとき、上司に鍛えられたこともあった。しんどかったが、後から思えば「いろいろなことを、教えてもらった」とわかる。考えてみれば「優しい」とされる上司の部下たちは、あまり伸びていない。遠慮のない教育こそ「風通しのよさ」であり、会社を強くする。体験に基づく信念だ。

「知彼知己、百戦不殆」(彼を知り己を知れば、百戦して殆(あや)うからず)――よく知られた『孫子』にある言葉だ。芦田さんの分析も、他社相手だけではなかった。その最大の舞台が「プラザ合意」以後の円高不況、90年代の再々編の時期に、やってくる。自社の生き残り策を練ったときで、まさに「知己」だった。

(聞き手=街風隆雄 撮影=門間新弥)