「学歴」は自由を保障する「通行手形」

出身大学によって企業への就職の機会が制限されるのは差別であるなどという不平等の文脈で「学歴」という言葉が扱われることが、今は多い。しかし元来「学歴」には、どんな出自であっても学問を修めればどんな社会階層にも上がっていけることを保障する「通行手形」としての役割があった。平等で自由な社会を実現する装置の一部であった。

中卒、高卒、大卒と、通行手形のランクが上がれば世界も広がる。当然人々は1つでも上のランクの通行手形を手に入れようとする。親は子に、できるだけ上等な通行手形を持たせて送り出したいと願う。そこに競争が生まれる。

同世代全員が同じレールの上を行くのである。たった1歩でも人よりも先に行きたいと誰かが早歩きを始めれば、まわりの歩幅も大きくなる。受験競争の始まりだ。気づけばみんなが全力疾走をしていた。

途中で気分を悪くする者もいる、怪我をしてしまう者も出る。それでも競争は止まらない。何でもありの受験狂想曲である。皮肉である。全国津々浦々の子供たちに平等な教育を行き渡らせることを実現した結果、国民的教育競争が始まってしまったのだ。

少しでも優位に立つための手段として塾が登場した。日本において塾の数が爆発的に増えたのは1970年代半ば以降のことである。高校進学率が9割を超えたころにちょうど重なる。その意味で塾は、この国の教育の平等性と画一性の産物といえるのである。