信長より1歳若い長秀は、織田家にあっては家老の双璧で、勝家に次ぐ席次にあった。姉川の戦いなどに転戦して、信長から「惟住」の称号を与えられた。松永久秀を信貴山城に攻めたときには中心となり、中国攻めでは秀吉に従って播磨三木城の包囲に加わった。加賀一向一揆攻めでも勝家とともに出陣し、天正9(1581)年の京都馬揃えでも一番に入場する栄誉を与えられた。

軍事力の面では、秀吉、勝家、光秀に及ばず、地味な存在だったことはたしかだが、「織田株式会社」の双璧だったことは、たしか。

「木下」姓だった秀吉が、丹羽長秀と柴田勝家の苗字から一字ずつをとって「羽柴」を名乗ることを信長に申請したことでも、うかがえる。

そのせいか、長秀は秀吉の実力をつねに認めていた。清洲会議の席で、三法師が「次期社長」に就任することをいちばんに承認したのも長秀だった。

長秀は、自分より1歳若いだけの秀吉を盛り立て、助け、勝家が自害したのち北庄城の入ることになる。

清洲会議から3年後の天正13年、長秀が病に倒れると、秀吉は医師を北庄城に派遣している。秀吉が、「部下」となった長秀に一目置きつづけていたことがわかる。

同じ「織田株式会社」の取締役でありながら、キャリアはあっても目立つことのなかった長秀は、光秀のように反旗を翻すこともなく、勝家のように自滅することもなく、実力ナンバー1の秀吉を助けることで、その地位を守った。

「織田株式会社」の双璧と言われながらも、結果的に自滅しなかったからこそ、「信長のナンバー2」という称号を与えるに値する武将だ、と評価してもよいのではないだろうか。