2012年11月18日(日)

「千姫」なぜ家康は大阪城から孫娘を救ったのか

PRESIDENT 2011年7月4日号

著者
楠木 誠一郎 くすのき・せいいちろう
作家

1960年、福岡県生まれ。日本大学法学部卒業後、歴史雑誌編集者を経て作家となる。近著に『秋山好古と秋山真之』(PHP研究所)、『幕末ミステリー坂本龍馬74の謎』(成美文庫)など。

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作家 楠木誠一郎=文
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徳川秀忠と江の長女に生まれた千姫は、生まれたときから政略結婚の道具になることが定められていた。

幕府が開かれて半年後の慶長8年(1603)7月28日、初代将軍家康の孫、秀忠の長女千姫は、豊臣秀頼に嫁した。

千姫の母は江。秀頼の母は淀殿。つまり、ふたりは従兄妹(いとこ)の関係だった。

このとき、千姫は数え7歳。秀頼は数え11歳。子供だ。

なぜ、このような違和感のある婚姻が成立したのか。

豊臣秀吉の遺言だった。

千姫が生まれた翌年に秀吉は他界しているのだが、まだ豊臣の天下がつづくと思っていた秀吉は、己れの後継者の嫁に家康の孫を「予約」していた。そのころ、立場は完全に豊臣家が「上」だった。死ぬ間際も、秀頼が天下人を継ぎ、五大老が支えてくれると思い込んでいた。

だが秀吉が死ぬと、五大老のひとり家康が台頭。関ヶ原の戦いののち天下を奪った。

家康は、秀吉の「予約」を破棄せず、幕府を開いた半年後に実現させた。それは、家康が豊臣家を潰すための婚姻だった。

自分の孫を嫁がせた家康は、京都まで挨拶に来るよう秀頼に再三命じたが、母淀殿はこれを断固拒否。家康は「妻の実家に挨拶しろ」と大義名分を変えてまで説得し、なんとか実現させる。それでも淀殿はおもしろくないため、なおも楯突く。

そこで家康は豊臣家に方広寺再建を命じ、鐘楼の銘文「国家安康」が「家康」を分断しているなどとイチャモンをつけて、大坂の陣を起こす……。

じっさい、千姫と秀頼の新婚生活は、はじめはママゴトのようなものだったが、年月が経つにつれ、仲睦まじいものになっていったという。

大坂の陣がはじまったとき、江は気が気でなかったはずだ。態勢は徳川の有利。豊臣が負ければ大坂城にいる千姫はどうなってしまうのか。

ふつうなら、夫の秀頼とともに自害する運命……。

家康にしても、淀殿と秀頼には死んでもらわねばならない。

だが孫娘の千姫だけは死なせたくない。助けてやりたい。

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