神を冒涜する権利が主張される理由

テロの標的となったシャルリー・エブドを支持する人々で、街は埋め尽くされた(1月11日 フランス・パリ)(時事通信フォト=写真)

全世界を驚かせた「シャルリー・エブド」襲撃事件。表現を暴力で封じ込める行為は許されないが、フランスの抗議デモを見て、微妙な温度差を感じた人も多かっただろう。

日本でも1991年、イスラムに冒涜的とされた小説『悪魔の詩』の翻訳者が刺殺される事件が起きた。この事件ではイラン革命政府の関与が疑われたが、デモには発展しなかった。それに対して、今回フランス全土で抗議デモに参加したのは370万人だ。

なぜフランスでは多くの人がデモに参加したのか。今回デモが拡大したのは、フランスでの表現の自由に「神を冒涜する権利」が含まれているからだという指摘すらある。

中世フランスではカトリックが絶大な権威を持ち、他の宗教は迫害を受けてきた。しかし、宗教革命を経てカトリック批判はタブーでなくなり、フランス革命で表現の自由は市民の権利として確立された。市民が体を張って神を批判する権利を手に入れた歴史的経緯があるので、イスラム教の預言者ムハンマドを風刺することも正当な権利と考え、それを脅かされることに強く反発したというわけだ。

一方、「神を冒涜する権利があるというのは、誇張した言い方ではないか」と指摘するのは憲法学者の沢登文治氏だ。

「フランス人権宣言で説かれたのは、宗教批判より、カトリックの他宗教に対する寛容さです。歴史的経緯を踏まえるなら、むしろイスラム教徒が侮蔑されたと感じないよう配慮した表現をすることがフランス人権宣言の精神に相応しいでしょう」